モスクワ大公国の拡大とは? わかりやすく解説

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モスクワ大公国の拡大

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 00:55 UTC 版)

ロシア正教会の歴史」の記事における「モスクワ大公国の拡大」の解説

1467年ヴァシーリー2世長子であるイヴァン3世東ローマ帝国最後の皇帝コンスタンティノス11世のソフィアゾエ・パレオロギナ)を妻として迎えローマ帝国継承者であることを宣言したその後イヴァン3世により、豊かな毛皮産する後背地抱えノヴゴロド1478年)と貿易の活発であったプスコフ征服された(正式な併合後年)。同時期、ヤロスラヴリ1463年)、ロストフ1474年)、トヴェーリ1485年)なども次々併合され、これにより独自の豊富な財源手に入れたモスクワ大公ルーシ諸公貴族の中で専制君主として振舞実力獲得したこうした国力反映し生神女就寝大聖堂ウスペンスキー大聖堂)がモスクワクレムリン内に建設された。 イヴァン3世初めて「ツァーリ」(皇帝)の称号名乗った君主であり、双頭の鷲紋章モスクワ大公紋章加えられた。 モスクワ大公征服活動の中でノヴゴロド大主教明確にモスクワ府主教の下に位置付けられることとなり、カトリックリトアニアモスクワ狭間揺れ動いてきたプスコフ正教会世界へ編入がほぼ確定され大半東スラヴ正教会世界ヒエラルキー整理された。 この時代プスコフ近郊修道士フィロフェイが、書簡中で「モスクワ第三のローマである」と言及している。モスクワ事実上完全に屈服させられプスコフ人がこのような文言述べたのは聊か奇異に映るが、当時、「世界創造紀元」で7000年にあたったのが1492年であり、一種世紀末的な思想流布していたことも「第三のローマ論」の背景にあると思われるコンスタンティノープルの陥落リトアニア脅威前に終末思想伴った当時ロシア精神的な緊張があったことは、モスクワによる権力統一への機運高まったことの背景として指摘されることがある。「モスクワ第三のローマである」という言葉は、東ローマ帝国滅亡後正教会世界にあって唯一の独立国となったロシアの、正教守護者としての自負を示すものとして流布していく。 イヴァン3世後継者であるヴァシーリー3世征服事業継続プスコフ1510年)、ヴォロク公国1513年)、リャザン公国1521年)、ノヴゴロド・セーヴェルスキー公国1522年)を大公国編入した。ノヴゴロドプスコフという、北方栄えた中世共和政都市は、ここにおいて名実共に解体された。 次のツァーリイヴァン4世は、紙と印刷機導入常備軍創設などの近代化進め対外戦争リヴォニア戦争など)を実行するとともに教会への国家統制強めたイヴァン4世統治時代(特に治世後半)は、彼のあだ名となった雷帝」の語にも象徴されるようにロシア恐怖政治吹き荒れた時代であった後述する所有派の流れを汲むモスクワ府主教フィリップ皇帝対し痛悔迫り国家皇帝正常化しようと努力したが、最後に絞殺された。 ヴァシーリー2世以降大公ツァーリによるロシア正教会への介入は強まる傾向があったが、15世紀中頃から16世紀初頭にかけて、ロシア正教会性格関わる重要な論争教会において起こっていた。所有派と非所有派の論争である。

※この「モスクワ大公国の拡大」の解説は、「ロシア正教会の歴史」の解説の一部です。
「モスクワ大公国の拡大」を含む「ロシア正教会の歴史」の記事については、「ロシア正教会の歴史」の概要を参照ください。

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