モスクワ大公国の拡大
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「ロシア正教会の歴史」の記事における「モスクワ大公国の拡大」の解説
1467年、ヴァシーリー2世の長子であるイヴァン3世は東ローマ帝国最後の皇帝コンスタンティノス11世の姪ソフィア(ゾエ・パレオロギナ)を妻として迎え、ローマ帝国の継承者であることを宣言した。 その後、イヴァン3世により、豊かな毛皮を産する後背地を抱えるノヴゴロド(1478年)と貿易の活発であったプスコフが征服された(正式な併合は後年)。同時期、ヤロスラヴリ(1463年)、ロストフ(1474年)、トヴェーリ(1485年)なども次々に併合され、これにより独自の豊富な財源を手に入れたモスクワ大公はルーシ諸公・貴族の中で専制君主として振舞う実力を獲得した。こうした国力を反映し、生神女就寝大聖堂(ウスペンスキー大聖堂)がモスクワのクレムリン内に建設された。 イヴァン3世は初めて「ツァーリ」(皇帝)の称号を名乗った君主であり、双頭の鷲の紋章がモスクワ大公の紋章に加えられた。 モスクワ大公の征服活動の中でノヴゴロド大主教は明確にモスクワ府主教の下に位置付けられることとなり、カトリック国リトアニアとモスクワの狭間で揺れ動いてきたプスコフの正教会世界への編入がほぼ確定され、大半の東スラヴの正教会世界のヒエラルキーが整理された。 この時代、プスコフ近郊の修道士フィロフェイが、書簡中で「モスクワは第三のローマである」と言及している。モスクワに事実上完全に屈服させられたプスコフ人がこのような文言を述べたのは聊か奇異に映るが、当時、「世界創造紀元」で7000年にあたったのが1492年であり、一種の世紀末的な思想が流布していたことも「第三のローマ論」の背景にあると思われる。コンスタンティノープルの陥落とリトアニアの脅威を前に終末思想を伴った当時のロシアに精神的な緊張があったことは、モスクワによる権力統一への機運が高まったことの背景として指摘されることがある。「モスクワは第三のローマである」という言葉は、東ローマ帝国滅亡後の正教会世界にあって唯一の独立国となったロシアの、正教の守護者としての自負を示すものとして流布していく。 イヴァン3世の後継者であるヴァシーリー3世は征服事業を継続。プスコフ(1510年)、ヴォロク公国(1513年)、リャザン公国(1521年)、ノヴゴロド・セーヴェルスキー公国(1522年)を大公国に編入した。ノヴゴロドとプスコフという、北方に栄えた中世共和政都市は、ここにおいて名実共に解体された。 次のツァーリ、イヴァン4世は、紙と印刷機の導入、常備軍の創設などの近代化を進め、対外戦争(リヴォニア戦争など)を実行するとともに、教会への国家の統制を強めた。イヴァン4世の統治の時代(特に治世後半)は、彼のあだ名となった「雷帝」の語にも象徴されるようにロシアに恐怖政治が吹き荒れた時代であった。後述する所有派の流れを汲むモスクワの府主教聖フィリップは皇帝に対し痛悔を迫り、国家と皇帝を正常化しようと努力したが、最後には絞殺された。 ヴァシーリー2世以降、大公・ツァーリによるロシア正教会への介入は強まる傾向があったが、15世紀中頃から16世紀初頭にかけて、ロシア正教会の性格に関わる重要な論争が教会において起こっていた。所有派と非所有派の論争である。
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