モスクワ大公国への従属
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/02 05:51 UTC 版)
「トヴェリ大公国」の記事における「モスクワ大公国への従属」の解説
1372年、ドロゴブージ公エレメイが死亡し、領地はその息子に継承された。1373年にはカシン公位が、ミハイルの息子のヴァシリーに譲られた。 1374年にトヴェリとモスクワは再び交戦状態となった。トヴェリ公ミハイルは勅書を得て、トルジョクとウグリチを自身の支配下に置こうと画策すると、モスクワ公ドミトリーは、ブリャンスク公国、スモレンスク公国、リトアニア大公国ら周辺諸国の軍勢とともにトヴェリを包囲(ru)した。ミハイルはこれに屈し、自身がモスクワの”弟”の立場にあることの承認を余儀なくされた。 1382年にカシン公ヴァシリーが死ぬと、カシン公国領はトヴェリ公国領に再吸収された。ミハイルはトクタミシュから、トヴェリ大公に叙される勅書を得た。1399年のミハイルの死後、トヴェリ大公位は息子のイヴァンに受け継がれるが、他の兄弟との領土争いがしばしば起こった。また、イヴァンの治世にトヴェリは幾度かの飢饉に見舞われた。1423年にイヴァンは死亡し、後をついだ息子のアレクサンドル、その子のユーリーもまた伝染病に罹患し相次いで死亡した。 1425年にトヴェリ大公となったボリス(ru)は、リトアニア、モスクワと協調路線を採り、トヴェリの国力の回復に成功するが、後を継いだミハイルは、当初の協調路線から転じ、ポーランド王カジミェシュ4世と同盟を結んでモスクワの干渉からの脱却を試みた。しかし1485年、モスクワ大公イヴァン3世によってトヴェリを陥とされた。ミハイルはリトアニアへ亡命し、トヴェリはイヴァン3世の息子イヴァン・マラドイに与えられた。イヴァンの死後はナメストニクが派遣されてこれを統治した。かくして、トヴェリの独立性は失われた。1492年までに、トヴェリ大公国領はモスクワ大公国の税収制度の中への編入が終了した。 なお、後代には、カシモフ・ハン国のシメオン・ベクブラトヴィチが、1585年にトヴェリ大公の称号を冠していた時期がある。
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