モスクワ大学時代
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「ミハイル・レールモントフ」の記事における「モスクワ大学時代」の解説
1830年8月、レールモントフはモスクワ大学に入学する。モスクワ大学の同窓生にはヴィッサリオン・ベリンスキー、アレクサンドル・ゲルツェン、イヴァン・アクサーコフ、ニコライ・スタンケーヴィチら、後年に文壇で名を馳せる人物が多く在籍していたが、レールモントフは彼らと交流を持たなかった。当時のモスクワ大学にはベリンスキー、スタンケーヴィチ、ゲルツェンが指導する3つの急進派の学生のグループが存在していたが、スカビチェフスキーの言うところの「くだらない傲慢」はレールモントフがそれらのグループに参加することを妨げた。レールモントフは講義に真面目に出席しながらも時折講堂の片隅で本を読み、大規模な事件を除いて学生たちの集まりに加わることは無かった。1831年に人気のない教授が野次を飛ばす学生たちによって講堂から締め出された事件にはレールモントフも参加していたが、収監されたゲルツェンとは対照的に、レールモントフは表立って叱責は受けなかった。 レールモントフの大学生活の最初の一年は、家族の不和の悲劇的な結末で締めくくられた。息子との離別は父のユーリに深刻な影響を及ぼし、アルセーニエフ家を離れてからこれっきり、死に至るまでの残された短い時間をただ費やすだけだった。父の死はレールモントフにとって過酷な喪失であり、彼の詩には父の死を嘆く心情が反映されている。しばらくの間、レールモントフは真剣に自殺を考え、初期の戯曲である『人間と情熱』と『奇妙な男』の結末は主人公の死で終わる。また、彼の日記から判断すると、当時のレールモントフはヨーロッパの政治に対する強い関心を持ち続けていた。"Predskazaniye"などの大学時代に書き上げた詩のいくつかでは高度な政治の問題が扱われており、未完に終わった"Povest Bez Nazvaniya"はロシアにおける民衆の蜂起を主題としている。大学時代に書かれた"Parus"、"Angel Smerti"、"Ismail-Bei"といったいくつかの詩は、後世で彼の傑作の一群と見なされるようになった。 レールモントフの学生生活の最初の一年は試験が行われず、モスクワでコレラが流行したため、大学は数か月間閉鎖された。知的探求心に富んだレールモントフは大学の授業とは別に個人的な研究に取り組んでいたが、ある教授の試験で授業とは異なる回答を出したために教授と対立する。レールモントフを敵視する教授は彼を落第させて退学を勧告し、レールモントフはモスクワ大学を中退した。1832年6月に大学を中退したレールモントフはペテルブルクに移り、ペテルブルク大学への編入を試みたが、モスクワ大学在学中に取得した単位を認められず、1年次からの入学を求められた。このためレールモントフはペテルブルク大学への編入を諦め、ペテルブルクに設置されていた近衛士官学校に入学する。
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