カフカースへの流刑
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「ミハイル・レールモントフ」の記事における「カフカースへの流刑」の解説
カフカースに流される途上、ピャチゴルスクの鉱泉で権力への抵抗と現代社会への不満を歌った詩『商人カラーシニコフの歌』を作り上げる。カフカースに辿り着いたレールモントフは大自然、土地の山岳民族、流刑に服すデカブリストやジョージア(グルジア)の知識人と出会い、視野を広げていった。また、独立のために戦うカフカースの人間に強い共感を覚え、チェチェン人との戦いに積極的に参加して手柄を立てた。現地の土匪の討伐に従軍したレールモントフは戦闘で勇気を奮い、周囲を驚かせた。音楽にも秀でていた彼は、この期間に辺境を守るコサックの老婆の子守歌を聞いて、これを採譜し、ロシア語の『コサックの子守歌』を持ち帰って公開したという逸話も残し、この歌は現在も日本を含む世界中で愛唱されている。 1838年2月にレールモントフはノヴゴロドの連隊への移動を命じられ、この地に着任する。しかし、2か月も経たないうちに、祖母のエリザベータはレールモントフのペテルブルクに駐屯する連隊への異動を取り付けた。ペテルブルクに移ったレールモントフは小説『現代の英雄』の執筆に取り掛かるが、この小説はレールモントフにロシア散文の創始者の一人という名声をもたらすことになる。『現代の英雄』は「余計者」ペチョーリンを巡る5つの話で構成されており、物語はところどころに自伝的な要素を含んでいる。1839年1月、雑誌"Otechestvennye Zapiski"を主宰するアンドレイ・クライエフスキー(英語版)は、レールモントフに自分の雑誌に定期的に寄稿するよう提案した。『現代の英雄』を構成する短編のうち、「ベーラ」と「運命論者」の二編が"Otechestvennye Zapiski"の第2号と第4号に掲載され、残りの三編が1840年に出版されると、大いに人気を博した。後世、『現代の英雄』はロシア文学における精神的リアリズムの先駆けである古典とみなされるようになった。 1838年にペテルブルクに帰還したレールモントフは文学界の寵児として社交界から歓迎されたが、傲慢、不遜、冷淡に見える態度を変えることはなかった。この時期にモスクワ大学時代の同窓生である批評家ベリンスキーはレールモントフと長時間会話を交わし、彼が偉大な芸術家であることを初めて悟る。ペテルブルクの上流階級がもたらす浅薄な快楽はレールモントフを蝕むようになり、彼の気性の悪い面はより顕著になる。女官であり、ペテルブルクで流行していたサロンの女主人でもあるアレクサンドラ・スミルノワはレールモントフについて、「彼はなんて贅沢な人間なのだろう。切迫した大惨事に直面しているように見える。過ちに対して傲慢である。退屈で死にかけ、自分自身の軽薄さに苛立っているが、こうした環境から解き放たれようとはしない。奇妙な男だ、……」と書いている。 レールモントフはソフィア・ステパノワとエミリア・ムシーナ=プーシキナのサロンで人気を集めていたが、二人の気を引こうと競い合っている男たちの間に反感を引き起こした。フランス大使の息子エルネスト・デ・バラントもそうした男達の一人であり、1840年の初頭にレールモントフはバラントをステパノワの面前で侮辱した。バラントはレールモントフに決闘を申し込み、プーシキンが致命傷を受けたチョールナヤ・レチカとほぼ同じ場所で決闘が行われた。レールモントフは軽傷を負い、決闘の後に逮捕、投獄された。収監されたレールモントフの元にはベリンスキーなどの彼の詩文の崇拝者が面会に訪れたが、例に漏れず面会者たちもレールモントフの二面的な性格とちぐはぐで難解な気質を理解するのに手を焼いていた。 バラントとの決闘事件の後、レールモントフは再びカフカースに追放される。ペテルブルクを去る直前、レールモントフは友人たちの前で書き上げたばかりの詩『雨雲』を朗読し、詩の中で延々と続く迫害と自身の理想から離れた過去の生活を回想し、詩を聞く人間に感銘を与えた。軍功と祖母の配慮によってレールモントフは数か月の休暇を認められ、ペテルブルクに戻った。すでに刊行されていた詩集の影響も相まってレールモントフの名声はより高まっており、様々な貴族のサロンから珍客として招かれるが、傲慢な異端者という周囲の評価は変わらなかった。舞踏会の最中に皇族に敬意を示さなかったことを理由に休暇を取り消され、再びカフカースに流された。
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