日ソ2強時代とは? わかりやすく解説

日ソ2強時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 04:12 UTC 版)

バレーボール日本女子代表」の記事における「日ソ2強時代」の解説

1951年国際バレーボール連盟加盟第二次世界大戦での敗戦爪痕がまだ残っていた日本社会ではあったが、戦後復興スピード目覚ましく、特に、紡績業糸へん景気沸き大きく業績伸ばしてた。だが世間的には、紡績業は「女工哀史」のイメージあまりに強く紡績企業が望む希望雇用人数達する事は難し時期でもあった。それゆえに、各紡績企業は、過去イメージ払拭すべく、手厚い福利厚生アピールしつつ、自社名を世間広め為に女子バレーボール実業団チームを持つ事が流行になっていた。日紡も少し遅ればせながら、この業界流れ加わり本拠地貝塚に置き、実業団チーム結成した。これが、日紡貝塚出発だった。 初代監督には、関西学院大学大学二連覇実績を持つ、社員大松博文抜擢された。日常業務終了後比較的、背が高いだけの素人女性社員達を集めて大松独りパスから教えるという環境であった為、当然、芳しい結果得られなかった。大松は、チーム成績低迷している事に、上層部から厳し叱責を受け、日本一になる事を命じられる大松は「肉体への厳し訓練は、精神強化に繋がる」事を自らの過去経験知っていた。大松は、世界大戦時、推定16万人犠牲者出したインパール作戦に、第31師団小隊長として従軍し、「死の行軍」と呼ばれた撤退作戦生き抜いて帰国した人物だった。かくして大松は、軍隊式の厳し体力強化訓練と自らの持つバレー技術を、素人同然女子選手達に指導しチーム発足から5年目にして、当時バレーボール界での5冠を達成し圧倒的な強さを誇る日本一チーム作り上げた当時日本では、まだ9人制主流だったが、世界は6人制主流だった。この為に、日本女子バレー世界で実力未知数だったのだが、1958年国内で6人制大会が行われ、6人制でも日紡貝塚圧倒的な強さ見せた事が「1960年ブラジル世界選手権に出させてみよう。日本勝てるのではないか?」という期待繋がっていった。1960年には、河西昌枝宮本恵美子増尾谷田絹子半田百合子松村芳子という、後に「東洋の魔女」と呼ばれたメンバー日紡貝塚集結していた。 初の世界大会となる1960年第3回世界選手権では、予選リーグ全勝通過進出した決勝リーグでも強豪国を撃破しソ連現:ロシア)には敗れたものの、初出場ながら銀メダル獲得した代表選手選考は、日紡の選手中心に選出され監督大松務めた結果初出場にて銀メダルと言う輝かしいものだったが、国内無敗だった日紡貝塚メンバー大松にとっての銀メダルは「敗北屈辱しかない大きな衝撃であり、結婚見据えて引退決意していた河西宮本は、引退決意撤回し打倒ソ連」に人生全て賭けた。この大会で大松が一番強く感じたのは、「海外選手との体格差」だったという。チームで一番背の高い(174セッター河西以外は、ほぼ大人子供のような差すら感じたようで、大松ソ連対策明け暮れた日々過ごしていた。 そこで、大松編み出したのが「回転レシーブ」である。「から落ちたダルマ人形が、勝手に立ち上がったのを観て思いついた」という、まるで、漫画のような話だが、本当の話である。そして、その技術指導悲惨極めた選手達は、いつも体中のどこかに、生傷怪我抱えた状態のまま就業し、就業終わったら、夜遅くまで練習をする日々過ごした練習時に選手失敗をすれば、大松罵声怒号体育館響き渡った。 この苛烈練習状況知った労働組合フェミニズム団体は、大松練習姿勢大きく批判した日本女子バレーボールに「スパルタ」「精神論」「根性」のイメージがついた原因は、この事が大きい。 しかし、実際現場様子違っていたようで、「私達先生奴隷だったようなになっていますが、もし本当だったら、皆、とっくにバレー会社辞めてます。全然違います」と主将河西断言する選手達の証言によれば大松先生回転レシーブ実際に何度もやってみせてくれたから、私達もやろう思った黒板書いて説明するだけの馬鹿監督なら誰もついていかない先生は、絶対にソ連に勝ちたかった私達付き合ってくれただけ」という内容のものが多く選手達の大松対す感情意見は、総じて世間イメージとは大きく違っている。 当時日本女子チーム強さ理由のひとつに、主将河西存在があった。最年長河西は、メンバー全員にとって、プライベートでも実姉のような存在であり、チーム団結強固だった。 「就業時間が、大松先生より私達の方が短いので、先に河西さんを中心に練習始めます河西さんの構えた所に、私達レシーブ返すんですけど、一ミリズレたら、河西さんは取らない無言睨み返してくるだけです。先生より怖かったです河西さんは、自分為の練習時間犠牲にして、私達鍛えてくれているのが痛いほどわかってましたので、ホント必死でした大松先生が来たら、皆、ホッとする感覚ありました」という、選手間だけの練習時の模様の話も残ってる大松は、練習中、チーム内に気が緩んだ空気感じると「やめちまえ!」と練習場から不意に出ていく癖があった。この場合東洋の魔女チーム対処は、まず河西大松追いかけて、練習続行懇願する。 だが最終的に河西は、大松傲岸態度我慢ならなくなり、「練習中に出ていくなんて、監督は卑怯です!」と大松罵倒したその様子を外から眺めている他メンバーが「そろそろいく?」と相談し皆で泣きながら大松練習直訴した。 宮本によれば泣くのは演技です。茶番です」だそうだが、時は流れて狩野舞子がいた八王子実践高校でも似たような事がよくあったそうで、この練習時の監督激怒茶番劇は、どこの女子バレーチームにもある伝統芸なのかもしれない1962年第4回世界選手権日紡貝塚単独チームによる出場金メダル獲得当初全日本女子は「東洋の嵐」というニックネームだったが、世界選手権前の欧州遠征強化試合にて22連勝達成した事で、ソ連新聞により「東洋の魔女」と命名された。 決勝相手は、当時世界最強だったソ連となる。決戦時の日チームの状態は、増尾は膝の怪我谷田脚気宮本小指骨折松村片目見えない態という、怪我人だらけの布陣だった。 だが「皆、これくらい怪我は、ごく普通の事でした」という驚異的な環境過ごしていた彼女達は、「ソ連に勝つ為ならなんでもやりましたから」と、試合出場を全くためらわず、更に怪我感じさせないプレーソ連勝利するソ連に勝つ悲願達成した魔女達が、勝利喜びを大爆発させた理由一つに「解放感」があった。若い磯辺以外のメンバーは、勝利と共に引退決意していたからだ。だが、当時日本世論は、魔女引退を許さなかった。 「世界舞台でソ連勝ったという事実は、当時日本人にとって特別な事だった。第二次大戦後、シベリア抑留され日本人捕虜死者数数万人に及んでいたし、 日本から離れた満州北朝鮮暮らしていた日本人達は、敗戦と共に帰国の途に付くも、ソ連兵襲撃にあっていた。この時、ロシア人によって性的屈辱受けた婦女子の数は相当数に登っている。 ゆえに、この勝利には、「恨み怒り哀しみ晴らしてくれた」という日本人感謝想いがあった。 この瞬間より、日本女子バレーボールは、日本人にとって常に「勝利への絶対的期待」と「敗北許されない呪い」が伴う特別なスポーツになった1964年の東京オリンピック日紡貝塚中心チーム構成金メダル獲得し大松博文監督率いる同チーム東洋の魔女呼ばれたそもそも大松監督魔女チームは、東京五輪出場する気持ち全くなかった大松は、あらゆる関係者からの出場要請断り続けた。その理由は「選手達が結婚適齢期過ぎてしまうから」という内容だった。 大松は「もし東京オリンピックに出るなら、皆、結婚適齢期越えてしまいます。特に河西31歳にもなる。29歳辞めるのと、31歳では雲泥の差です。そんなむごい事は、僕にはできません」という内容何度も繰り返した現代では、逆に女性差別に繋がる理由だが、当時では、普通人思想考えられており、女性蔑視には取られない思想だった。それでもなお周囲大松への要請辞めない弱りはてた大松は、日紡の選手自身五輪出場判断委ねた引退決めていた選手達は弱りはてた。そして、全ては、河西昌枝委ねられた。河西答え出ない思考続け、「現状世間期待抗う事は難しい」という結論出し五輪出場する覚悟決めた肝臓傷めていた増尾だけは、引退せざるを得なかったが、他のメンバー達は「河西さんがやるなら、私もやります」と、皆、予定していた自分人生投げうって、河西ついていく事を決めた。 「現代のような高度なチームプレイがないから、という理由ありますが、私達チームでは、セッター河西さんからのサインは全く出ないのです。何も言わなくても、私達間柄なら、全部わかりますから。 例えば、ジグゾーパズルみたいなものです。たった1ピース欠けちゃうと駄目です誰か一人でも抜けるとチームとして機能しない私達は、自分人生よりメンバーの方が大事ですから」と宮本振り返る。 絶対に負けられないプレッシャーに勝ち、金メダル決まり日本社会が、空前規模歓喜湧いた魔女達も喜び爆発させた中、大松だけは喜びきれなかった。 大松は「全て終わった。まるで、自分の身が地に沈んでいくような、不思議な感覚でした」と述懐している。 大松は、五輪終了後すぐに、選手達のお婿さん探し奔走し続けた恋愛結婚半田以外は、彼女達結婚は、全て大松紹介よるものだ。だが、最年長河西相手だけが決まらず、大松はこの事を嘆いていた。 大松は「会社が、河西の婿を見つける約束でしょう!」と、婿探し動かない会社激怒し会社辞表提出した翌年日本の首相佐藤栄作就任した。その祝賀パーティーでの出来事である。 「大松君、こういってはなんだが、金メダルご褒美に何か欲しい物があったら、私に是非いってほしい」と佐藤栄作大松言葉をかけると、大松は「是非、河西昌枝婿探しをよろしくお願い致します」と即答した大松返答に、心を打たれ佐藤栄作は、自衛隊二尉中村和夫河西紹介し河西は、中村お見合い結婚をする運びとなった。 この経緯で、日紡を退社した大松は、中国周恩来首相のたっての希望で、中国にて女子バレーボール普及させ、1981年ワールドカップ1982年世界選手権1984年ロサンゼルス五輪にて、中国女子が王者となる下地作った以後日本とソ連優勝を争う日ソ2強時代がしばらく続き1968年メキシコシティオリンピック1972年ミュンヘンオリンピックはいずれソ連敗れて銀メダルであった1976年モントリオールオリンピックでは日立中心チーム構成臨んだ。「たい焼きレシーブ」など守り粘りと、セッター松田紀子の「世界一速いトス」による前田悦智子の「稲妻おろし」やエース白井貴子の「ひかり攻撃」、高柳昌子の「ロケットサーブ」などの攻撃で、他を圧倒し12年ぶりに金メダル獲得ソ連との決勝では15-715-815-2ストレート勝ちを収め大会史上初となる失セット0の完全勝利という快挙であった1980年モスクワオリンピック出場は、前大会優勝国として既に獲得していた。選手強化順調に進み1979年プレオリンピックでも優勝したことで五輪連覇できる可能性はかなり高いと言われていた。しかし同年開催国ソ連アフガニスタン侵攻し、これに対す対抗措置としてアメリカ政府提案したオリンピックボイコットに日本政府同調したため不参加となった。 「東洋の魔女大成功物語」から始まった日本女子バレーボール歴史は、大松退任以降長期渡って山田重雄小島孝治の二大巨中心に回っていく。 二人共通点は「体育教師」という一点のみだった。ルックス、好むバレーボールスタイル、個人性格、ほぼ全ての部分正反対であったいえよう。 この時期女子バレーボールは「日本お家芸」「国技と言ってもおかしくない超人スポーツ位置にあり、日本社会空前好景気だった追い風もあって、日本巨大企業群を巻きこみ、利権が絡む覇権争い生み出していった。 当時山田重雄は、コーチとして三鷹高校日本一導いた小さな実績と、巨大な野心持っていた男だった。全日本バレーボール女子監督就任して世界一になる夢を持ち、自ら足を運んで、各企業群に自分売り込む活動をしていた。 そして、ある年に、山田念願叶った多摩地区企業群に、バレー部設立の話を持ち掛けた時、小平市工場構えていた日立製作所が、山田の話に乗ったのだ。山田は、かつての教え子達に片っ端から連絡し日立呼び寄せ指導行った女子バレー屈指の名門日立製作所武蔵工場バレーボールチーム(後の日立ベルフィーユ廃部)」は、こうして「野心家一人の男」によって、日本社会誕生したもう一人体育教師小島孝治は、四天王寺高校体育教師であったバレーボールにおける高い指導力から、大松後任として、日紡貝塚就任し次期メキシコ五輪の有力候補となっていた。 しかし、すでに日紡貝塚には、魔女はおらず小島チーム一から作る態となっていた。その結果日紡貝塚は、258連勝の大記録ヤシカ止められ山田率い日立武蔵敗北し小島は、その指導力疑問持たれてしまう。 この間山田日立武蔵をわずか4年にて、NHK杯日本リーグ全日本総合タイトル獲得させ、この勢いにのって、全日本女子バレー監督就任決まった。この時の山田年齢は、わずか36歳であった山田は、拾って繋ぐ大松イズム否定し攻撃的パワーバレーを好んだ全日本女子チームでも、自身率い日立メンバー中心に構成し攻撃的パワーバレーにて、メキシコ五輪臨んだ全日本女子は、快進撃続け五輪決勝相手ソ連迎えた当時ソ連監督は、名将ギビギビは、完膚なきまでに山田戦略の裏をかき、パワーバレーで日本叩き潰したソ連苦しむ事なく金メダル獲得したギビは、完勝理由を「日本戦略全てわかっていたからだ」と説明した山田が、この瞬間ギビから受けた屈辱計り知れない銀メダル結果受けた山田は、責任を取る形で、全日本監督退いた。 しかし、この時から、山田の「執念」が始まる。山田は、資産家養子であり、お金には困らない立場だった。私有資産をつぎ込みソ連のある人物から、ギビ生い立ち住まい様子など、履歴情報全て買い入れたソ連チーム来日した際には、ギビ椅子隠しマイクをつけ、選手にかける声を全て拾い分析をした。ギビ普段から何を食べるのか、私生活でどんな会話をするのか、食事に使う額はいくらか何もかも徹底的に調べ上げた。 この山田執念が、1976年モントリオールでの日本の完全勝利へと繋がる。山田逆にソ連何をするのか全部わかっていた。ギビも、その事に気づいただろう。試合途中、彼が気の毒ですらあった」という勝利感想述べる。 バレーボールにおける、日ソ二強時代は、この70年代にて終わったと言えるだろう。 時期前後するが、1972年ミュンヘン五輪指揮を執った人物は、小島だった。決勝時の日本とソ連激闘は、伝説名勝負とされている。当時20歳で、身長180越え白井貴子が、全日本現れていた。 白井は、日本待ち望んだ期待の高身長パワーアタッカーだった。しかし、白井は、守備を好む小島スタイルとは合わず自身が肩も痛めていた事で、五輪決勝まで、ほとんど試合起用される事はなかった。 その白井が、決勝にて起用され活躍見せた。「小島さん好きなスタイルではない自分が、まさか、この大事な試合に出るとは思っていなかった」と述懐する白井は、劣勢だった日本を救うスパイク打ち込みポイント重ねていった。 波に乗った日本金メダル目前にみえたが、小島が、フォーメーション表を間違えて記入提出をしてしまった事で、あっけない敗北終焉迎えた。 「私は、レシーブが苦手。小島さん拾って繋げバレーは私には向かない」と悩んでいた白井が、バック守備位置から始まる事になってしまった。本来なら、白井前衛レフトスタートから始まるはずだった。 チーム動揺大きくソ連主導権を掴まれてしまった。結果は、銀メダルではあるものの、「前回メキシコ五輪続きソ連相手にまた負けた」事、「金メダル連続逃した」事で、世論から大きな非難を受ける。 敗北による悔恨の念に塗りつぶされ白井は、帰国飛行機中にて、わずか20歳ながら引退決意した。「金メダル以外は敗北」という時代生きた女達にとって、なんら不思議な事ではなかった。 だが、その飛行機の中で、小島から日本の新聞渡され白井は「白井日立移籍決定」という記事に驚く。白井自身が全く知らなかったからだ。「山田さんマスコミ戦略です。でも、自身これで終わるより、賭けてみるかなって」。 山田は「ソ連に勝つには、まず自分チームある日立を強化するべき」という方針をとり、勝利為に日本の各企業チームから優秀な選手を、片っ端から日立引き抜いた山田は、小島チームからも6人もの選手引っ張った1976年モントリオール五輪にて、再び全日本監督返り咲いた山田重雄は、得意のパワーバレーによる「ソ連対策」の厳し練習選手達に叩きこみ、ソ連相手決勝にて、3セット55分で終わる最短記録叩きだして勝利した。 「ソ連スタメン表をみた瞬間に、私達勝利わかりました練習通りにやるだけでした」と白井笑って述懐した。翌年日本開催W杯でも、日本女子優勝し山田は、世界選手権五輪W杯三冠達成した大成功となった。 この時、日本女子バレーは、東洋の魔女以来黄金期迎えた

※この「日ソ2強時代」の解説は、「バレーボール日本女子代表」の解説の一部です。
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