中国にて
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「オットー・ブラウン (共産主義者)」の記事における「中国にて」の解説
ブラウンは1932年、博古が中国共産党総書記をしていた上海の中共臨時中央に赴任する。しかし1933年1月、その中共臨時中央の上海での活動が難しくなったため、博古と共に周恩来が事実上支配していた江西省の中央ソビエトに移ってきた。この地でブラウンの通訳を務めたのは伍修権(中国語版)であり、彼は後の回想録でブラウンについて詳しく記録を残しているので、中ソ対立期の中国側から見たブラウン像は伍の回想録によるところが大きい。 博古はこの時26歳であったが、赴任早々中共中央局を組織し、周恩来に取って代わる。中国共産党のトップを任されたのは、博古にソ連留学の経験があり、ソ連コミンテルンの後押しがあったためだった。博古は軍事に暗かったため、軍事顧問のブラウンに、紅軍(中共軍)の全権を渡した。赴任当初の1932年から1933年にかけては蔣介石が指揮する中国国民党軍を撃退する功績も挙げている:52。もっとも、ブラウン自身の後年の回想によれば、この時のブラウンはあくまでも指揮権を持たないアドバイザー役であり、後の敗戦による瑞金撤退の責任も自分には無いと語っている:61。 通訳の伍修権の回想録によれば、瑞金でブラウンは一戸建てに住み、伍修権と王智濤、警備兵、炊事員、馬丁などを住まわせていた。博古もよく遊びに来ていた。食事は饅頭を嫌ってパンを要求するなど、贅沢であった。ここでブラウンは党の斡旋で女工の蕭月華と結婚するが、妻ではなく愛人であったともいう。もっとも、瑞金は食糧も女性も不足しており、党幹部の行動、とりわけ外国人であるブラウンの行動は目立ち、伍修権が実質以上に大げさに伝えた可能性も指摘されている:90-95。 ただしブラウンの独断専行に、中国共産党将校達は不満を持っていたともいう。特に軍の指揮権を1932年10月に取り上げられていた毛沢東にとっては、ブラウンは目の上のコブであった。 1933年10月、蔣介石が指揮する中国国民党軍により、中央ソビエトの第5回討伐が始まった。国民党軍にはこの年5月から中独合作の一環としてドイツの軍事顧問ハンス・フォン・ゼークトが赴任していた。ゼークトは蔣介石に対し、これまでの作戦を転換して、陣地を築きながら少しずつ前線を進めることを進言した。一方、ブラウンは軍事経験に乏しく、数的な不利にもかかわらず消耗戦を展開した。中共軍は必然的に徐々に追い込まれ、ついに1934年10月に江西撤退を決意し、いわゆる長征の旅に出る。 中国共産党はこれまでは博古、ブラウン、周恩来で「三人団」を形成して重要事項を決めていたが、黎平にたどり着いたとき、ブラウンと周恩来は激しく対立した。1935年1月、貴州省にたどり着いたとき開催された遵義会議で、周恩来が毛沢東に寝返ったこともあり、ブラウンは敗戦の責任を問われて博古と共に解任される。 ただしその後も長征に参加して、軍事教育と研究工作にあたった。1935年9月に張国燾の軍が共産党から分裂した際には、毛沢東側を支持している。その後、共産党軍は延安に到着し、しばらくはそこを拠点とすることになる。延安ではアメリカ生まれの医師ジョージ・ハテム(英語版)と同居した。それまでは時々主要な会議に呼ばれていたが、1936年頃からは呼ばれなくなった。役目が無くなったブラウンは、モスクワに対してたびたび帰還命令を出すよう要請していた。しかし軟禁されていたというわけではなく、共産党応援のために延安に入った国内外からの支援家などを自宅に招いて接待に当たっていた。1937年、上海から延安に来た歌手李麗蓮と結婚している。当時延安の男女比は18対1であり、ブラウンはこの点では恵まれていたと言える:192-196。 1939年、ソ連から突然の帰国命令が出る。この際、ブラウンは妻の李麗蓮を連れて帰ろうとしたが、入国許可証が無いことを理由に許されなかった。見送りに来た周恩来は後で李麗蓮を送り届けると言ったが、結局実行されなかった。
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