中国における青銅器の歴史
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詳細は「中国の青銅器」を参照 中国で、青銅器がいつのころから使用され始めたのかは明確な回答は出ていない。現在では、紀元前2000年ごろの二里頭文化時代には既に青銅器が制作されていたことが発掘調査などで判明している。また、甘粛省の馬家窯文化遺跡で発掘された青銅製の刀器は、放射性炭素年代測定によると5000年以上前に作られたものであると判明している。。このため、最も早いと確認されている出土品を基準にするならば、少なくとも紀元前3000年頃には既に青銅器時代に入っていた地域が中国に存在していたこということになる。 ここでは中国の青銅器を五期に分類するが、三期分類・四期分類なども存在する。 第一期:二里頭文化から商(殷)初期まで 種類も少なく、大きさも小さい。初期には銅と青銅が混在する。主に実用に供するものが多いことが特徴で、小型の墳墓からも出土する。このことから、大きな権力を保持しない者でも日常使用していたものと思われる。 第二期:殷(商)中期から西周前期まで 殷(商)の青銅器は獣面紋(饕餮(トウテツ)文)と呼ばれる模様と雷紋と呼ばれる模様が主に鋳造されている。殷(商)後期から西周前期には、模様が器の全面を覆い、しかも立体的な高浮き彫り状になっている器物が多い。全体が動物型になった器さえある。器物の種類も増えるが、最大で1.2メートル、800キログラムと持ち上げられないくらい大きな例がみられる(司母戌方鼎)。模様や形は、殷(商)末期と西周初期でほぼ共通しているが、西周期は鳳凰紋が多くなる。殷(商)期のものには文字が1から20字程度鋳込まれているが、固有名詞や紋章の羅列のようなものが多い。西周に入ると、200字以上の堂々たる文章を入れる例がでてくる。青銅器に鋳込まれる(彫り込まれた)文字と文章を金文と呼ぶ。 第三期:西周中期から春秋時代前期 酒器が少なくなり、食物を盛る器が多くなる。紋様は、幾何学的模様が多くなり、立体的で奇矯な模様もなくなる。獣面紋(トウテツ紋)は中心ではなく周辺部に使用されるようになる。銘文は長文が多く、497字(毛公鼎)という例さえある。銘文の文字の形も、前期ほど謹厳ではなくかなり自由である。 第四期:春秋時代後期から戦国時代 戦国時代に入ると、多数個セットで製造された鼎がしばしば発見される。龍紋を繰り返し表面にスタンプする技法が多い。立体的な動物彫像を取っ手や部品に使う豪華な器物も多数出現する。一部では、金銀ガラス象嵌を使用した華美なものや、複雑精緻な透かし彫りを行った青銅器も出現する。また、音楽演奏用の鐘の大きなセットがしばしば制作された。武器や馬車用の部品の青銅器にも金銀で豪華な装飾を施したものがでてくる。 第五期:秦から唐まで 漢代でも引き続き製作されているが、鉄器の普及とともに、徐々に質・量ともに下火になっていく。唐代に入ると鏡などの一部の青銅器が残るものの、文化の中から青銅器の占める割合は激減する。
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