中国における認識と論争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/05 20:24 UTC 版)
「中国本土」の概念は、中国へは清時代後期にもたらされ、後述のように18個の省が統治する地域を「内地十八省」と表現するようになった。 また、清朝末期から中華民国の初期にかけての時期(清末民初)には、革命派や中国共産党の関係者にこの概念が受容されて「中國本部」という用語が使用されるようになった。例えば、鄒容の『革命軍(中国語版)』(1903年)第四章「革命必剖清人種」、孫文の『実業計画』(1921年)、中国共産党第二次全国代表大会(1922年)の「大会宣言」や「『帝国主義と中国および中国共産党』に関する決議案」などには「中國本部」という表現が用いられていた。台湾で出版される歴史の記述においては、柏楊の『中国人史綱(中国語版)』(1979年)や、許倬雲(中国語版)らの文章のように、第二次世界大戦後においても「中國本部」という表現が用いられることがある。 しかし、その後「中華民族」概念が広まると、中華民国やその後の中華人民共和国において、「中國本部」は排除される表現となった。1950年代に、銭穆は『中国歴代政治得失』第四講「明代」の中で、「中國本部」は「外国勢力が意図的に物事の是非を混乱させ侵略の口実として作り出したものだ」と述べている。 今日では、中国本土(チャイナ・プロパー)は、中国においても議論を呼ぶ概念となっている。現在の公式のパラダイムが、中国の核心地域と周縁地域の対比を認めていないからである。標準的な中国語である普通話で“China Proper”に相当する表現として広く用いられている言葉はない。 中華人民共和国においては、台湾、新疆、チベットといった領域は、中国の不可分の一部である、というのが公式の政策であり、政府が発行する公文書ではさらに進んで、これらの地域は、過去においても常にそうであったと主張されている。中国本土(チャイナ・プロパー)という概念が排除されるのは、独立(分離主義)の正当性に根拠を与えるからである。一方、台湾、チベット、ウイグルの独立を支持する人々は、文化に基盤を置いたネイションとしての「中国本土(チャイナ・プロパー)」と、政治的実体としての「中国」との区別を明確にすべきであると主張している。この観点からすると、中国本土(チャイナ・プロパー)が本来の中国であり、他の地域は中国の一部ではなく、中国によって獲得された植民地であるとみなされる。 「中国本土(チャイナ・プロパー)」という用語は、中華民族の歴史的、文化人類学的な中核地域という意味で解釈される場合は、さほど論争的になるわけではない。一般的に、この概念は柔軟なところがあり、定義も文脈によってしばしば変わっていく。繰り入れられたり、除外されたりする地域によっても、中国本土(チャイナ・プロパー)の現代における解釈は影響を受ける。
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