中国における評価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 03:54 UTC 版)
平山洋は、「中国人による福沢批判の声の大きさに惑わされて、その主張にほとんど多様性がない」と批判した。 彼ら中国の福沢批判者は、彼の思想を実際に読んでいるわけではなく、ごくわずかだけ中国語訳されている、日本の福沢研究論文の骨子を、中国語で叫んでいるだけなのである。彼らが下敷きにしているのは、服部之総・遠山茂樹・安川寿之輔らの研究である。それ以外の、福沢を「市民的自由主義者」として肯定的に評価する丸山真男らの論文が出発点となることはない。 小川原正道は、「平成22年11月に北京大学で講演し、福沢の文化思想や宗教思想などについて話した際、同大学の著名な教授から「福沢には『脱亜論』以外の側面もあるんですね」と素直に驚かれ、愕然とした」と述べる。 また、最も福澤の対外思想へ批判的な安川寿之輔の著書が近年中国で盛んに翻訳されている。 だが、区建英の研究によると、以下のように説明されている: 清朝末期における福澤はむしろ優れた啓蒙思想家、教育家としての一面が強く認識されていた。 また1980年代に中国の改革開放政策を進める中、日本の「近代化」の成功へ着目し、日本に成功の秘訣を学ぼうとする傾向が生じた。福澤も日本の「近代化」を支えた思想家、そしてシンボルの一つとみなされ、彼の「脱亜論」を再評価する見方さえも登場した 。 決してのちの福澤=脱亜論者というイメージではなかった。 丸山眞男は中国における福澤の人物像に対する主な反論として以下の5点を挙げている: 「脱亜」は福澤のキーワードではなかった。 福澤が1885年の時点でただ一回だけ「脱亜」の文字を用いて書いた社説は、1884年12月に「甲申政変」の失敗のもとに執筆された。一時的な感情の表現と解釈すべきである。 「脱亜」という言葉は「興亜」という言葉に対するシニカルな反語的表現と思われる。 福澤の思想においては、終始、政府(政権)と国とをはっきり区別した立場がとられ、また政府の存亡と人民あるいは国民の存亡とを厳しく別個の問題として取り扱う考え方が貫かれていた。攻撃の対象は中国・朝鮮の人民ではなく、あくまでも満清・李氏朝鮮の政府である。 「脱亜入欧」という表現が福澤の全思想のキーワードとして世界に流通するのは1950年代以後の傾向である。
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