上海での活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/01/18 20:21 UTC 版)
上海時代の董康Who's Who in China 3rd ed. (1925) 翌年帰国後の董康は、代理大理院長をつとめていた余棨昌に職務を引き継ぎ、まもなく上海に移った。以後、法律研究に専念し、1924年(民国13年)からは、東呉大学で法律を教授した。 1926年(民国15年)、国民革命軍が北伐により江西省に入り、上海を支配していた孫伝芳とこれを救援しようとする奉天派の軍隊との衝突が発生しかける。董康は、江蘇・浙江両省の代表として、孫に停戦を求めた。同年11月には、江西を加えた三省の民間有力者とともに三省連合会委員会議が召集され、董康が主席に推戴された。董は引き続き孫と奉天派の張作霖に対して軍事行動の停止を呼びかけている。しかし翌月、孫の強硬な軍事統制によって三省連合会は禁止され、董は日本に亡命した。 1927年(民国16年)5月、董康は帰国し、上海法科大学校長、東呉大学法学院院長などを歴任した。1931年(民国20年)には、中国国民党法官訓練所教務主任、所長もつとめている。また、日本でも董康の法学者としての名声は高く、董康は招聘に応じて中国古代刑法の講義のため日本にも赴いている。1933年(民国22年)、北平に移り、北京大学法科、国学研究所の教授をつとめた。
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