上海における英国スカウティング・国際スカウティングとは? わかりやすく解説

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上海における英国スカウティング・国際スカウティング

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/07/03 13:05 UTC 版)

中国本土におけるスカウト運動」の記事における「上海における英国スカウティング・国際スカウティング」の解説

1901年結成され1910年登録されドラゴン第1隊は極東における最初スカウトであった。これは1842年まで条約港であった上海の「上海共同租界」の定住民で四カ国以上の国民からなる英国民および英語話者スカウト連盟(以下隊の4周年記念日)に発展することが予定されたものであった1909年に「ボーイスカウト隊」がボーイズブリゲードの支部として設立された。これは上海スカウティングさきがけであり、その参加者代表的なコスモポリタンで、文化的に西洋である上海住民であった1910年10月6日、わざわざボーイズブリゲードからの分離目的として、「上海ボーイスカウトロンドン独立司令部結成するために25人の少年が「ボーイズブリゲードスカウト」から選ばれた。 いくらか英国民をふくむ様々な国籍信仰少年たちがいた。 1911年春に上海ボーイスカウトはボーイズブリゲードを離脱しおおよそ42メンバーでABCの三つの団となった。彼らはそれぞれ三つ異なネッカチーフ着用した。6人の指導者がおり、総長イギリス人のG.R. Welchであった。 彼らはロンドンボーイスカウト本部には登録せず上海共同租界統治組織である上海市議会工部局)の保護を受ける独立連盟となった1911年のエンパイア・デー(ヴィクトリア女王誕生日である5月24日)を前にして、発展した独立ドラゴン第1隊とトリニティ大聖堂聖歌隊はいくつかのボーイズブリゲード起源イギリス人ボーイスカウト隊と合併し1911年3月24日純粋なイギリス人スカウト隊として登録された。この合併英国出身指導者H.R. Hertslet. (1912年勲功章)が仕組んだものであったトリニティ司教座聖歌隊ハウス以降30年上海第1ベーデン=パウエル隊の本部として使用された。 1912年4月12日英国領事館において、上海滞在中に二つスカウト連盟視察したベーデン=パウエル敬意示して合同パレード開かれた。 疑うらくもなく35名のベーデン=パウエルスカウト70の上ボーイスカウトスカウト15名のベーデン=パウエルガールスカウト11名の指導者合計131人、すなわち共同租界の全スカウト参加した。 ボーイズブリゲードのスカウトはいなかった。これは当時英国におけるボーイズブリゲードとスカウティング軋轢踏まえたのだったとみられている。 この記念パレード直後英国教育を受けるために9人の年長スカウトベーデン=パウエル隊を離脱した。 それによって上海第1ベーデン=パウエル隊は1909年式の暗色制服着てドラゴン隊」として1930年7月バーミンガム開かれた帝国スカウト展」に出席するをことができた(1911年ベーデン=パウエル隊の制服カーキ色変更されている)。 1914年4月までに上海公立学校年長隊員が第1ベーデン=パウエル隊を去ったために、第1上海司教座学校隊として登録していた 司教座学校スカウトは第1ベーデン=パウエル隊に改組された。初代隊長はL.R.Wheen(1914年7月ロンドン本部承認)。 8月欧州における大戦上海スカウト集団構成思いもよらない影響及ぼした最初期スカウト指導者一人であるF.C. Millingtonは1914年暮れから1915年1月30日まで第1ベーデン=パウエル隊を引き受けたが、その間彼とRev. A. J. Walker2つ学校から上海ボーイスカウトの上公立学校隊の年長スカウトを含む22名の少年勧誘した1914年暮れから、5人の英国スカウト伝令係として西部戦線赴くこととなった。 隊の4周年記念であった1915年3月24日ロンドン本部から公立学校隊の追加の班を第1ベーデン=パウエル隊の別部門として認めるとの電報届いた。この追加の班はさまざまな国籍スカウト抱えていたが、上海市議会の「最新式庁舎から追い出されることはなかった。彼らは「英国連盟」のはじめての国際的な加盟であったこの年暮れ、Millingtonを含む少なくとも10名のスカウト兵役為に上海去った三連盟の合同ラリー1915年6月26日開催された。中国スカウト連盟から約200名、上海ボーイスカウトから約30名、ベーデン=パウエル・スカウトからは約60名が参加した。第1ベーデン=パウエル隊は教会学校班と新たに認可され公立学校班から構成された。1915年8月Fitzroy Lloyd隊長Samuel Horeが副長となったLloydとHoreは元はボーイズブリゲードの指導者であり、 ロンドン本部承認を受けるには数年要した。C.A. Connor、W.R. Hatton、E. Judahもまた元々はボーイズブリゲードの人間であったが、腕利き信号手であった1916年後半、第1ベーデン=パウエル隊の公立学校班はベーデン=パウエル第2上海学校となった。この隊がこののち30年わたって当地スカウティング草分けとなることとなる。 1919年第3フランス学校隊と第4トーマスハンブリー学校隊が結成され1919年から1948年まで新たな国際隊として「帝国本部」(1920年改称される)に登録された。1942年まで16スカウト隊が上海支部登録されている。「英国連盟」の急速な成長各国スカウトに刺激与え各国ごとの連盟結成促すこととなった上海においてはアメリカ人フランス人亡命ロシア人その他ヨーロッパ人のスカウト隊はすべて共同租界の「英国連盟」の下に集った。他の連盟の創設先立って外国人スカウトは英語で指導試験を受け、英国式の制服記章着用することとなった中国人スカウティング1912年武漢市華中大学創始され1913年には英米スカウト指導者協力得て上海でも活動開始した1915年の夏には6個隊を編成する至ったが、そのうち4隊は教会隊、2隊は学校であった中国人スカウティング1926年には全国的な連盟結成するうになる。そして1932年第一次上海事変においては少なくとも4名のスカウト衛生兵として従軍し殉職した。 「英国連盟」の最大加盟員数1940年621人であり、1932年から1941年にかけて恒常的におよそ10個隊が加盟していた。ボーイスカウト上海連盟創設され1911年から1948年にかけて、16個隊が消滅した隊の復隊として再登録されている。 いくつかの学校隊や教会隊に加えてユダヤ人隊、2つカトリック隊、2つ中央欧州難民隊、チェコスロバキア人の「オールド・スカウト」隊(ローバー)、2つ白系ロシア人隊、フランス人隊が存在した一時上海ドイツ人学校Kaiser Wilhelm Schuleドイツ人ルーテル派隊があったが、1933年活動ヒトラーユーゲント転換したため加盟資格停止された。また、2つの上電話会社職域ローバー隊、羊毛会社カブ隊や、いくつかの独立隊があった。 ヨーロッパ人難民多くオーストリア人であり、その他はホロコーストから逃げてきた者たちであった。彼らは上海新天地求めた最新スカウトであった日本軍の占領により居住地制限された。彼らは戦後ほかの集団解散していくなかでも活発であった1939年オーストリア人スカウターFredy Mittlerが上海で第13連合団を組織した 。この団はオーストリアドイツからのユダヤ人エミグレによって構成されており、第二次世界大戦終戦時点で120人の隊員擁した 。この団は第二次世界大戦後まで存在した 。この団は隊員のほとんどがヨーロッパアメリカオーストラリア移住してしまったために活動終了した活動終了までに、上海オーストリアオーストラリアアメリカ南アフリカ隊員存在した海外隊員は「13新聞」で新しい生活を報告した 。第13連合団にはカブスカウトローバースカウトローバー、オールド・スカウト、ブラウニーガールガイド所属した1947年班長Robert Knopがキングスカウトを取得した班長Fritz Tausigはオーストラリア派遣団の一員として第6回世界スカウトジャンボリー参加した最初期には、先立ってシベリアにおけるポグロムによる難民があり、そして1917年のロシア革命から逃れた白系ロシア人続いた。 「英国連盟」の全盛期1931年から1941年であった1928年移転新築された司教座学校は、最終的に高校になった司教座学校隊は上海全隊との競争ロータリー盾章を9年で4回受章東部地区の上公立学校1921年1922年の2回受章したが、その時参加したのは2個隊のみであった次の年からユダヤ人隊が7回、公立学校が2回、ロシア人隊が2回、フランス人隊が1回司教座隊が1回受章し最後ジャンボリーとなる1941年ジャンボリーではかつてない10パーセントの票差で西部公立学校隊が受章した英国スカウト1932年まで共同租界郵便業務を行っていた 香港王立植民地英国東洋艦隊母港であったが、英国海軍深海シースカウトはしばし上海訪れた英国海軍地元スカウト伴って上海訪れたのが最初に報告されたのは1911年であるが、これは深海シースカウト・ローバースカウトの結成前である。 B-P卿とロンドン国際コミッショナー英国本部権威の下で、スカウト上海支部40年以上にわたって大いなる繁栄誇った。これらの運営英国連盟のギルウェル英国海外団に先立つものであった上海響き渡る英国スカウト連盟」(内実としては加盟員の国籍国際的なものであったが)は、第二次大戦まで続くこととなる。1943年より全英国民・連合国民日本軍によって、戦争終了まで事実上拘禁されることとなる 。彼らの状況良くて喜ばしくなく屈辱的なものであり、実際に多く悲劇的であった。その一方で 1941年から1943年にかけては離散的にではあるがスカウティングが行われており、緊張最高潮達していた1944年から1945年かけてもこっそりとスカウティング続けられた。 第二次大戦戦後の政治的・経済的な変化の後、 上海からの西洋人大規模な出国余儀なくされた。共産党1949年政権確立し、「英国連盟」も最後英国スカウトA. H. Gordon (1950年シルバーウルフ章) の末期疾患により事実上終わり迎えた。彼は1950年中国を去る直前円熟したカブ隊が小さな「シャンパーニャ」カトリック隊となるのを見届けた。 もはやイギリス人加盟はおらず、彼は少年たち連盟旗認定ローバーコミッショナーチェコスロバキア人Emil Stemberaに任せた1953年解散せざるを得なくなった上海支部と隊は、最後に謹厳な「ちかい」の再認式を行った

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