上海にて:『支那風俗』とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 上海にて:『支那風俗』の意味・解説 

上海にて:『支那風俗』

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 05:24 UTC 版)

井上紅梅」の記事における「上海にて:『支那風俗』」の解説

上海渡航後もしばらくは落ち着かず、いったん帰国したり、香港台湾にも渡ったというが、1915年大正4年)より日本語紙『上海日日新聞』の記者2年ほど務めた紅梅回想によれば、この新聞記事はほとんどが外信中国紙の無断翻訳であったり、広告主関連する事件書けなかったりといった、ジャーナリズムとは程遠い有様であったために、記者辞めたのだという。 上海では放蕩生活を送ったとされ、「支那五大娯楽」たる「喫・喝・嫖・賭・戯」(食道楽アヘン道楽を含む)、酒道楽女道楽博奕道楽芝居道楽)にのめり込んだことが高じて中国風俗研究至ったとされる。もっとも、当時新聞記者であった余毅民(早稲田大学出身、のち政界転じる)など友人たち遊芸習俗語り合う交流があり、決し紅梅個人遊興した見聞のみで著述行ったわけではない1918年大正7年4月、「五大娯楽」を研究することを目指して「支那風俗研究会」を発足させ、会誌として『支那風俗』を創刊した。この過程で、初め麻雀遊び方日本紹介する本を出すこととなった後述)。 『支那風俗』はもっぱら紅梅自身原稿支え雑誌であったが、経営思わしくなく1920年大正9年)には停刊している。紅梅は、中国風俗調査蓄積生かし相次いで書籍出版するとともに日本へ帰国して漢方薬輸入手掛けるなど資金作り奔走。『支那風俗』の再刊こぎつけたが、先に寄附金広く募っておきがら突然停刊をするという不義理をしていたために、上海日本人社会総スカン食っていた。

※この「上海にて:『支那風俗』」の解説は、「井上紅梅」の解説の一部です。
「上海にて:『支那風俗』」を含む「井上紅梅」の記事については、「井上紅梅」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「上海にて:『支那風俗』」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「上海にて:『支那風俗』」の関連用語

1
16% |||||

上海にて:『支那風俗』のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



上海にて:『支那風俗』のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの井上紅梅 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS