上海にて:『支那風俗』
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上海渡航後もしばらくは落ち着かず、いったん帰国したり、香港や台湾にも渡ったというが、1915年(大正4年)より日本語紙『上海日日新聞』の記者を2年ほど務めた。紅梅の回想によれば、この新聞の記事はほとんどが外信や中国紙の無断翻訳であったり、広告主の関連する事件が書けなかったりといった、ジャーナリズムとは程遠い有様であったために、記者を辞めたのだという。 上海では放蕩生活を送ったとされ、「支那五大娯楽」たる「喫・喝・嫖・賭・戯」(食道楽(アヘン道楽を含む)、酒道楽、女道楽、博奕道楽、芝居道楽)にのめり込んだことが高じて中国風俗の研究に至ったとされる。もっとも、当時新聞記者であった余毅民(早稲田大学出身、のち政界に転じる)など友人たちと遊芸や習俗を語り合う交流があり、決して紅梅個人が遊興した見聞のみで著述を行ったわけではない。1918年(大正7年)4月、「五大娯楽」を研究することを目指して「支那風俗研究会」を発足させ、会誌として『支那風俗』を創刊した。この過程で、初めて麻雀の遊び方を日本に紹介する本を出すこととなった(後述)。 『支那風俗』はもっぱら紅梅自身の原稿で支える雑誌であったが、経営は思わしくなく1920年(大正9年)には停刊している。紅梅は、中国風俗調査の蓄積を生かし、相次いで書籍を出版するとともに、日本へ帰国して漢方薬輸入を手掛けるなど資金作りに奔走。『支那風俗』の再刊にこぎつけたが、先に寄附金を広く募っておきがら突然停刊をするという不義理をしていたために、上海日本人社会で総スカンを食っていた。
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