上海での開業とは? わかりやすく解説

上海での開業

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 08:00 UTC 版)

牛山喜久子」の記事における「上海での開業」の解説

そんな折に、義兄(夫の兄)である牛山清人ハリー牛山)から、「上海土地確保しているので、そこで美容室をやってみないか」と誘いがあった。喜久子はこれに同意し1942年昭和17年)、夫婦2人東京抜け出し上海へ渡った。 同1942年に、上海キャセイ・ホテルで「ミセスウシヤマ・ビューティサロン」を開業したフランスから買い揃えたルイ王朝風の椅子彫刻施した三面鏡ドライヤー8台、窓は総ガラス張りと、当時としては東洋一設備であった上海各国列強支配され半植民地であり、美容を楽しむことのできる別天地であった毎晩のようにダンスパーティーを巡る生活であり、後に喜久子は「生涯最高に華やかな時だった」と振り返った。 しかし戦局の悪化につれて材料費高騰し営業状態の悪化陥った1944年昭和19年)、やむなくサロン閉店した美容仕事失った喜久子は、夫の営む軍事物資商社事務手伝日々送った1945年昭和20年)、終戦。そして退去命令出た喜久子たちは家財一切捨て知人宅の病院逃げ込んだ。「他国踏みにじられ中国人から辱めを受けるかもしれない」と、万一のための自決用に、常に小型拳銃携帯しつつ、引き揚げ日々待った。 その最中に店の元従業員再会しパーマ機を譲り受けた。そこで喜久子洗面所改装し同居女性たち助手とし、即席美容室開業した美容飢えていた日本人女性たち群がり、低料金にも関らず、千客万来荒稼ぎであった。「金を稼いで日本持って帰れない」と、友人集めて毎晩のように宴会開いた1946年昭和21年3月帰国した家財道具全て奪われその他の所持品目ぼしい物は検査でほとんど奪われトラック荷台荷物同然に乗せられ、船では3段ベッド押し込まれひたすら耐え続けて帰国であった。船が中国海岸離れたときは、期せずして乗客たち皆が「馬鹿野郎!」と叫んだ

※この「上海での開業」の解説は、「牛山喜久子」の解説の一部です。
「上海での開業」を含む「牛山喜久子」の記事については、「牛山喜久子」の概要を参照ください。

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