上海での開業
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そんな折に、義兄(夫の兄)である牛山清人(ハリー牛山)から、「上海で土地を確保しているので、そこで美容室をやってみないか」と誘いがあった。喜久子はこれに同意し、1942年(昭和17年)、夫婦2人で東京を抜け出し、上海へ渡った。 同1942年に、上海のキャセイ・ホテルで「ミセスウシヤマ・ビューティサロン」を開業した。フランスから買い揃えたルイ王朝風の椅子、彫刻を施した三面鏡、ドライヤー8台、窓は総ガラス張りと、当時としては東洋一の設備であった。上海は各国の列強に支配された半植民地であり、美容を楽しむことのできる別天地であった。毎晩のようにダンスパーティーを巡る生活であり、後に喜久子は「生涯で最高に華やかな時だった」と振り返った。 しかし戦局の悪化につれて材料費が高騰し、営業状態の悪化に陥った。1944年(昭和19年)、やむなくサロンを閉店した。美容の仕事を失った喜久子は、夫の営む軍事物資商社の事務を手伝う日々を送った。 1945年(昭和20年)、終戦。そして退去命令が出た。喜久子たちは家財一切を捨て、知人宅の病院へ逃げ込んだ。「他国に踏みにじられた中国人から辱めを受けるかもしれない」と、万一のための自決用に、常に小型拳銃を携帯しつつ、引き揚げの日々を待った。 その最中に店の元従業員と再会し、パーマ機を譲り受けた。そこで喜久子は洗面所を改装し、同居の女性たちを助手とし、即席の美容室を開業した。美容に飢えていた日本人女性たちが群がり、低料金にも関らず、千客万来で荒稼ぎであった。「金を稼いでも日本に持っては帰れない」と、友人を集めて毎晩のように宴会を開いた。 1946年(昭和21年)3月、帰国した。家財道具を全て奪われ、その他の所持品も目ぼしい物は検査でほとんど奪われ、トラックの荷台に荷物同然に乗せられ、船では3段ベッドに押し込まれ、ひたすら耐え続けての帰国であった。船が中国の海岸を離れたときは、期せずして乗客たち皆が「馬鹿野郎!」と叫んだ。
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