上海からマニラへ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/12 22:12 UTC 版)
竹一船団は、上海から経由地マニラへ向けて4月21日に出航した(海外資料では4月18日発とする)。このときの編成は輸送船15隻と、護衛の急設網艦「白鷹」以下、駆逐艦3隻(白露、藤波、朝風)、海防艦3隻(倉橋、20号、22号)、その他6隻であった。輸送船は第32師団用に5隻、第35師団用に3隻が割り当てられ、ほかマニラまで同行する船が7隻あった。2個師団以外に海軍の第107・第108防空隊などが乗船している。大本営は、竹一船団は4月27日マニラ着、5月3日ハルマヘラ着、マノクワリ地区への展開は5月7日-10日と予測した。 連合軍のシギント機関は、竹一船団の出航を知らせる暗号無電の解読に成功しており、通信解析により船団の針路が南であることも察知した。シギント情報にもとづき、アメリカ潜水艦ジャックが竹一船団へと向かい、4月26日午前、ルソン島北西沖で目標を発見した。艦長のトミー・ダイカー中佐は攻撃位置へ機動を試みたが、日本の潜水艦が現れて回避しなければならず失敗した。数分後、日本の航空機がジャックを発見して攻撃を加えたが、船団は特に進路を変えようとはしなかった。ジャックは急設網艦白鷹(石炭焚き)の煙突から出る排煙を目印にして、昼頃には再び船団に接触することができた。日没1時間前にジャックは浮上して攻撃を仕掛けようとしたが、またも日本軍機に攻撃されてしまい潜航せざるをえなかった。 日没後にもう一度浮上攻撃を仕掛けたジャックは、月も沈んだ闇の中で今回は攻撃を成功させた。日本の護衛艦艇の警戒が厳重で船団内部への侵入は困難だったため、ジャックは長距離から3斉射、合計19発の魚雷を船が密集しているあたりへ打ち込んだ。その結果、貨物船第一吉田丸(山下汽船:5,245総トン)が被雷して轟沈した。同船には第32師団のうち歩兵第210連隊主力など約3,500名が乗船しており、連隊長の小池安正大佐以下2500名以上が戦死。軍旗も海没した。その他の船は4月27日(海外資料では29日)にマニラへと入港した。なお、アメリカ海軍の資料では別に1隻の輸送船を損傷させたとしている。
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