上海時代
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1918年(大正7年)10月、佐吉は単身上海に渡航した。中国大陸への工場進出を実現するための調査であった。ほとんどの社員が中国進出に反対であった。だが、最後は弟平吉が社員達を、佐吉の意志を尊重するという結論に導いた。 佐吉は翌1919年(大正8年)に秋次を伴い再び中国に渡航、上海に滞在した。秋次の東京高等工業学校紡織科時代の同級生で三井物産上海支店に勤務していた古市勉の親身な働きもあり工場建設までこぎつけた。1921年(大正10年)11月には正式に上海市極司非而路(ジェスフィールド・現 万航路)に豊田紡織廠が設立された。 秋次はこれ以後1949年(昭和24年)まで、最初の渡航から数えれば約30年に渡り、上海が生活の中心であった。豊田紡織廠の社長は豊田佐吉であり、没後は豊田利三郎、豊田喜一郎であった。だが、彼ら豊田の経営陣トップはほとんど日本国内にいた。そのため、豊田紡織廠における製造や経営の決定は、ほぼ秋次に委ねられた。 トヨタ(豊田)は紡織廠以外に中国国内に自動車販売会社、ゴム製品の製造会社等多くの会社を設立した。だが、大部分が豊田紡織廠同様、実質的には秋次によって経営された。また、現地の商工会議所や日本と中国との架け橋となる多くの役職を引き受け、会社の事務所は一部大使館的な働きも果たした。 特に1945年(昭和20年)8月の日本の敗戦以後は、国民政府との窓口的役割も担った。国民政府より、戦後の中国の復興を手助けしてほしいという要請を受け、秋次は中国紡織機器製造公司最高顧問に就任した。1949年(昭和24年)に入り、国共内戦で国民政府が敗走するまで秋次は与えられた任務をやり遂げた。これは大大将豊田佐吉の夢の実現を最後まで果たそうという気持ちを持ち続けたということである。工場は同年に成立した中華人民共和国に接収されることとなった。
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上海時代
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1927年、許とともに密かに汽船で広州を脱出し、10月3日上海に着いた。1929年9月には、長男が生まれ、彼は「上海で生まれた嬰児」という意味で、「海嬰」と名付けている。1930年代の魯迅は、国民党政府によって、その作品をしばしば発禁処分にされた反体制文学者であった。しかし当の魯迅は、許広平と上海郊外のおしゃれなマンションで同棲し、子供が生まれると一家で毎週のようにハイヤーで上海都心の映画館へ通い、当時はやりのハリウッド映画を多くみている。1930年代上海では、近代的市民社会が形成されつつあったことがうかがえる。同時に上海では、新聞発行部数の急増が物語るように大衆文化が萌芽期を迎えていた。上海メディアは文化情報ばかりではなく、センセーショナルな話題も提供して、多くの読者を獲得しようとした。そのため魯迅の私生活もゴシップとして報じられている。妻を北京の母の下に置いて、17歳年下の教え子(許広平)と同棲する魯迅像が、国民党系メディアによって流された。その一方で、外国美術に関する旺盛な翻訳、復刻、評論活動も始めている。 幼年期から美術に深い関心を寄せてきた彼であったが、上海移住後は内山書店を通じて日本や欧米の美術書の入手が容易になったためである。同時に木版芸術の「民衆性」にも着目するようになった。廉価な費用により一枚の版木から100枚以上の絵を刷りだすことができる版画は民衆のためのすぐれた芸術手段であり、革命の武器ともなりうると考えた。さらに、文学者としては国民党独裁体制を厳しく批判し続けた。魯迅は、1936年10月19日上海にて、国防文学論戦のさなか、持病の喘息の発作で急逝する。魯迅逝去のニュースは全中国へ直ちに報じられ、その日のうちに孫文未亡人である宋慶齢の参加を得て葬儀委員会の名簿が作成されている。当初は、蔡元培、宋慶齢、毛沢東、内山完造、アグネス・スメドレー、茅盾ら9名の名が挙げられ、のちに周作人が加わって総勢13名となった。10月22日武装警察が出動するなか、巴金、胡風らの青年作家が出棺に際し棺を担ぎ、万国公墓に葬った。中華人民共和国建国後の1956年には魯迅旧居近くの虹口公園(現在の魯迅公園)に改葬されている。
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