西川秋次
西川秋次
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 05:46 UTC 版)
トヨタ(豊田)は大番頭というべき優秀な人物を多く輩出した。岡本藤次郎、石田退三、神谷正太郎そして奥田碩らである。だが、彼らより以前に佐吉を支え、佐吉の夢の実現に努力した大番頭と呼ぶにふさわしい人物がいた。それが西川秋次である。西川は1881年(明治14年)12月2日、愛知県渥美郡二川町三ツ家で西川重吉の二男として生まれた。浅子とは縁戚であった。 秋次は師範学校卒業後2年間、奉公の教師生活を務めた。その後、佐吉の要望で蔵前にあった東京工業学校(現 東京工業大学)紡織科へ入学した。卒業後、佐吉に仕えた。だが、その直後から佐吉におとずれた大きなに試練に、秋次も一緒に巻き込まれた。佐吉は豊田式織機株式会社(現 豊和工業)の常務取締役を、事実上解任された。失意の中、佐吉はアメリカで永住する意思を持って渡米することになった。この渡米に唯一同行したのが秋次であった。 佐吉はアメリカ滞在中、アメリカの織機より自分のつくった織機の方が優れていると確信した。また、ニューヨークで高峰譲吉博士に会い、アドバイスを貰うとより自信を深めた。彼は翻意し、帰国することにした。佐吉は帰路ヨーロッパを回り、8ヶ月程の外国滞在で下関へ船で帰ってきた。しかし、秋次はアメリカに残った。佐吉に特許や織機そして経済環境を調査するように言われ、2年5ヶ月にも及ぶアメリカ滞在となった。 秋次が帰国するや、佐吉と藤八で結婚話を決めた。相手は藤八の隣家、石川又四郎の娘・田津であった。秋次と田津の新婚生活は、佐吉の家族と同じ工場の中であった。佐吉は田津を呼ぶ時、親しみを込めて「おたつさ」と呼んだ。その後、佐吉と秋次の活躍の舞台は上海へと移って行く。 秋次は国内での仕事が中心である佐吉に代わり、上海の豊田紡織廠での実質的な経営者として佐吉を支え続けた。1930年(昭和5年)に佐吉が亡くなった後は、佐吉の夢の実現を成功させようと、ひたすら頑張った。秋次は喜一郎が自動車製造に乗り出した時、「喜一郎さん、上海から出来る限りの支援をします」と言ったと伝えられている。彼は大大将・佐吉の夢、息子・喜一郎の夢を支え続けた。
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