佐吉と渡米
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 19:03 UTC 版)
1906年(明治39年)12月、豊田佐吉を常務取締役に迎えて豊田式織機株式会社が設立された。だが、発明を重視する佐吉と経営を優先させる重役陣の対立が深まり、4年足らずで佐吉は事実上解任されてしまった。佐吉の落胆は大きかった。彼は日本に失望しアメリカでの永住も考え、渡米することを決心した。 1910年(明治43年)5月8日、佐吉は秋次を伴い、日本郵船の因幡丸で海を渡った。佐吉と秋次はアメリカ大陸を西から東へと横断した。佐吉はアメリカ各地で織機を見て回った。彼の頭から織機のことが離れることはなかったのである。日本を離れた時の意気消沈した思いとは違い、佐吉が発明した織機はアメリカの織機より優れていると彼は確信し始めた。 また、ニューヨークで高峰譲吉に会い、元気付けられたことでもう一度やり直そうと考えた。佐吉は帰国する決断をした。欧州を回って、1911年(明治44年)1月1日、佐吉は下関に帰国した。 だが、秋次は一緒ではなかった。秋次は佐吉からアメリカの特許や産業の事情について調べるという任務を課せられ、アメリカに残ったのである。三井物産の支援を受けながら懸命に佐吉の指示を果たし続けた。実際には佐吉と秋次の渡米に関しては三井物産が陰から支えていたのである。秋次のアメリカ滞在は1912年(大正元年)10月までの二年五ヶ月に及んだ。帰国後、秋次は豊田自働織布工場(現:トヨタ紡織)で働き始めた。
※この「佐吉と渡米」の解説は、「西川秋次」の解説の一部です。
「佐吉と渡米」を含む「西川秋次」の記事については、「西川秋次」の概要を参照ください。
- 佐吉と渡米のページへのリンク