岡本藤次郎とは? わかりやすく解説

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岡本藤次郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/03 17:01 UTC 版)

岡本 藤次郎(おかもと とうじろう、1889年7月18日 - 1983年12月19日)は、日本経営者豊田通商社長、会長を務めた。愛知県出身[1]

来歴・人物

旧尾張藩士の家に生まれ、市立名古屋商業学校を卒業。その後、アメリカニューヨーク州のイーストマンカレッジを卒業[1]東洋綿花(トーメン)に入社。1926年5月に豊田紡織取締役に就任し、常務を経て、1948年7月に日新通商(現 豊田通商)社長に就任し、会長を務めた[1]中部日本放送取締役、トヨタ自動車監査役、豊田自動織機監査役などを歴任[1]

1936年、自動車の月賦販売を目的として設立されたトヨタ金融(1942年9月、豊田産業に改称)の監査役に就任。同社が徐々にグループの持株会社としての性格を強めていた1941年当時、岡本は常務取締役として、社長の豊田利三郎、副社長の豊田喜一郎に次ぐ地位にあった。この他にトヨタ金融(豊田産業)設立以前より、豊田紡織の支配人(常務取締役)として同社の経営全般にあたり、多数の関係会社の役員に就任しており、戦前の豊田業団においては、西川秋次(1941年当時、豊田紡織廠 専務取締役)と双璧をなす中心的な人物であった。[2]

戦後、GHQによる財閥解体で、豐田産業が持株会社に指定された後、同社の商事部門を継承する日新通商(1956年、商号を豊田通商に改称)の設立のために尽力し社長に就任。[3]

1959年、豊田通商は、支援していた二輪車メーカー(トヨモータース)の倒産を機に経営危機に陥る。資本金の7~8倍の負債を抱え、トヨタ自動車工業が資材の取引窓口を回し、危機をしのいだ。[4]社長の岡本はこの経営危機の解決のため、トヨタ自動車工業との交渉に奔走し、同年に会長に昇任している。

1958年藍綬褒章を受章し、1962年紺綬褒章を受章し、1965年勲三等瑞宝章を受章[1]

1983年12月19日急性心不全のために死去[5]。94歳没。

脚注

参考文献

  • 興信データ株式會社『人事興信録 第31版 上』興信データ、1981年。 



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