岡本藤次郎
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岡本 藤次郎(おかもと とうじろう、1889年7月18日 - 1983年12月19日)は、日本の経営者。豊田通商社長、会長を務めた。愛知県出身[1]。
来歴・人物
旧尾張藩士の家に生まれ、市立名古屋商業学校を卒業。その後、アメリカニューヨーク州のイーストマンカレッジを卒業[1]。東洋綿花(トーメン)に入社。1926年5月に豊田紡織取締役に就任し、常務を経て、1948年7月に日新通商(現 豊田通商)社長に就任し、会長を務めた[1]。中部日本放送取締役、トヨタ自動車監査役、豊田自動織機監査役などを歴任[1]。
1936年、自動車の月賦販売を目的として設立されたトヨタ金融(1942年9月、豊田産業に改称)の監査役に就任。同社が徐々にグループの持株会社としての性格を強めていた1941年当時、岡本は常務取締役として、社長の豊田利三郎、副社長の豊田喜一郎に次ぐ地位にあった。この他にトヨタ金融(豊田産業)設立以前より、豊田紡織の支配人(常務取締役)として同社の経営全般にあたり、多数の関係会社の役員に就任しており、戦前の豊田業団においては、西川秋次(1941年当時、豊田紡織廠 専務取締役)と双璧をなす中心的な人物であった。[2]
戦後、GHQによる財閥解体で、豐田産業が持株会社に指定された後、同社の商事部門を継承する日新通商(1956年、商号を豊田通商に改称)の設立のために尽力し社長に就任。[3]
1959年、豊田通商は、支援していた二輪車メーカー(トヨモータース)の倒産を機に経営危機に陥る。資本金の7~8倍の負債を抱え、トヨタ自動車工業が資材の取引窓口を回し、危機をしのいだ。[4]社長の岡本はこの経営危機の解決のため、トヨタ自動車工業との交渉に奔走し、同年に会長に昇任している。
1958年に藍綬褒章を受章し、1962年に紺綬褒章を受章し、1965年に勲三等瑞宝章を受章[1]。
1983年12月19日、急性心不全のために死去[5]。94歳没。
脚注
- ^ a b c d e 興信データ株式會社 1981, お353頁.
- ^ 牧, 幸輝 (2011). “豊田利三郎と豊田業団”. 経営史学 46 (2): 2_49–2_73. doi:10.5029/bhsj.46.2_49 .
- ^ “沿革”. 豊田通商株式会社. 2025年8月2日閲覧。
- ^ Inc, Nikkei (2017年2月24日). “豊田通商 トヨタの先兵、未開の地をゆく(ナゴヤの名企業)「59年、支援していた二輪車メーカーの倒産を機に自らも経営危機に陥る。資本金の7~8倍の負債を抱え、トヨタが資材の取引窓口を回し、危機をしのいだ。 」”. 日本経済新聞. 2025年8月2日閲覧。
- ^ 1983年 12月20日 日本経済新聞 朝刊 p27
参考文献
- 興信データ株式會社『人事興信録 第31版 上』興信データ、1981年。
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