西川移民
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/22 05:47 UTC 版)
第二次世界大戦前にジャワ島で製糖業を営んでいた西川利通は、戦後日本へ引き揚げて「大日本精糖会社」を設立したが、当時の製糖原料である甘蔗は政府からの割り当てだったため思うような事業ができず、海外へ移住者を送り出して砂糖きびの栽培に従事させることを計画し、外務省の助言によりボリビアを選択した。西川は1950年に現地視察し、「サンタクルス日本人農業協同組合」の設立や移住者受け入れのための宿舎建設などの準備をし、帰国後、日本・ボリビア両政府の許可を得て、移住者を募集した。 1955年5月15日、日本全国より選定された16家族98名がオランダ船テゲルベルグ号に乗船して神戸港を出発し、14家族88名が7月末にサンファン移住地に入植した。原生林から手斧ひとつで開拓し、造った道路の両側に1家族50haの土地が与えられた。米作を始めたものの生活するには不十分であったため携行した物資を処分して生活費に換えたが、この処分資金を農業協同組合が不正流用したことが発覚し、組合は解散、製糖事業計画は失敗に終わった。無一文となった西川利通は1956年に家族を伴い帰国し、移住者は密林に放置された。西川はのちに日本ミッションボトリングジュース社副社長となった。
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