日ソ中立条約以後
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ノモンハン事件の停戦後、小規模な紛争は引き続き起きたものの、大規模な戦闘は生じなくなった。ノモンハン事件末期の1939年9月に第二次世界大戦が始まっている状況の中で、日ソの外交交渉が行われた。そして、1941年(昭和16年)4月に日ソ中立条約が成立し、相互不可侵とモンゴル人民共和国および満州国の領土保全が定められた。 日本陸軍はノモンハン事件でソ連軍の実力を知り、北進論に否定的な見方も出た。それでも、独ソ開戦翌月の1941年7月には関東軍特種演習と称する大規模な対ソ動員を実行したが、開戦には踏み切らず、南進論に基づくアメリカ・イギリスとの太平洋戦争へと向かった。他方のソ連軍も独ソ戦に主力を注いだ結果、紛争の発生件数は1940年の151件から、1941年には98件に減り、1942年には58件まで減った。 満州国境の安定は、独ソ戦が峠を越し、日本の戦況が悪化した1943年秋頃まで続いた。その後、再び紛争は増加し始め、ソ連の対日参戦が近付いた1944年(昭和19年)後半には五家子事件、虎頭事件、光風島事件、モンゴシリ事件などの小規模な国境紛争が起きた。関東軍の戦力の多くを南方や日本本土に転用してしまっていた日本側は、ソ連を刺激しないよう紛争を回避する方針を採った。しかし、最終的には1945年(昭和20年)8月に日ソ全面戦争となり、満州全土がソ連に占領された。
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