前田悦智子
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/09/05 07:21 UTC 版)
|
||||||||||||||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
基本情報 | ||||||||||||||||||||||||
国籍 | ![]() |
|||||||||||||||||||||||
生年月日 | 1952年1月31日(73歳) | |||||||||||||||||||||||
出身地 | 東京都大田区 | |||||||||||||||||||||||
ラテン文字 | Echiko Maeda | |||||||||||||||||||||||
身長 | 175cm | |||||||||||||||||||||||
体重 | 64kg | |||||||||||||||||||||||
選手情報 | ||||||||||||||||||||||||
愛称 | エッコ | |||||||||||||||||||||||
ポジション | センター | |||||||||||||||||||||||
利き手 | 右 | |||||||||||||||||||||||
ブロック | ||||||||||||||||||||||||
|

前田 悦智子(まえだ えちこ、現姓・田村、1952年1月31日 - )は、日本の元女子バレーボール選手。1976年モントリオールオリンピック金メダリスト。1970年代の女子バレーボール界を支えたミドルブロッカーとして、世界の頂点を制した名選手。引退後も、その影響力はスポーツ界のみならず、地域社会や文化活動、国際支援活動へと広がり、現在に至るまで精力的に活動。
来歴
中国人の父を持つ4人兄妹の末っ子として東京都大田区に生まれる。トキワ松学園高校を経て、1970年に実業団リーグの三洋電機(当時)に入部。
1974年に全日本入りを果たし、1974年の世界選手権金メダル、1976年のモントリオールオリンピックでも金メダルを獲得。センタープレーヤーとしてそれぞれ大きく貢献した。前田が放った高打点からの超鋭角スパイクは『稲妻おろし』と呼ばれた[1]。オリンピックでの活躍により、1976年度朝日体育賞を受賞した。
一方、国内では1972年に第3回実業団リーグ優勝、日本リーグ昇格に大きく貢献し殊勲賞を獲得。1977年には日本リーグにおいて、チーム3位ながら敢闘賞とベスト6に輝いた。
現在はNPO法人モントリオール会副代表、千葉県スポーツ振興審議委員、日本バレーボール協会評議員、BayFm審議会員等を務める。
館山市スポーツ大使として、地域のスポーツ振興に積極的に関わっている。小学生を対象としたバレーボール教室などを継続的に開催し、地域におけるスポーツの普及に貢献中。館山市のオリンピック・パラリンピック推進本部本部長(2015年〜2021年)も務め、市のスポーツ施策に注力。
人物・エピソード
幼少の頃には重い貧血症で医師からはスポーツ禁止を言い渡されていたが、中学に進学すると天性のバネを見込まれバレーボールや陸上競技など様々な競技を経験する。特に走り高跳びでは東京都大会に出場するまでになった。
高校へ進学すると陸上部がなかったため、バレーボール部(9人制)かバスケットボール部かで悩み、「体の負担の軽そうな」バレーボール部を前田は選択した。体のことがあり当然レギュラーにはなれず球拾いの毎日で、ボールを拾いに行くと帰りは苦しくて歩いて帰ってきた。たまたま同じ貧血症の先輩からアドバイスを受けて励まされたという。バレー部コーチが中学時代の走り高跳びのことを覚えていて、東京三洋電機監督(当時)の稲山壬子を紹介する。東京三洋電機社長と面談した際に、体のことを打ち明けると「必ず治る」と言われ就職を決断したという。3年で病気を治し、4年目で6人制バレーボールを本格的に覚え、5年目で試合に少しでも出られればいいと考えていたという、いかにも大陸の血を引くおおらかさである。入部後は、負けん気の強さからトレーニングと食事療法に熱中し、貧血症を克服した。
1974年全日本入りし出場したアジア大会の韓国戦で途中出場で逆転勝ちし優勝、前田はここで全日本レギュラーの座をつかんだ。生来の明るいキャラクターがチームのムードメーカーとなった。モントリオールオリンピックの金メダルポイントの時には、誰よりも喜びをあらわにしたという。
現役引退後は、東京三洋電機の秘書に転身し、当時の専務兼、バレー部部長である田村巧の下で働いた(後の1982年に田村と結婚)[2]。経験などなかったが、前田は「あそこまでバレーボールに打ち込んだら、できない仕事はない」を述懐している。さらに1979年12月に退社後、「今までのスポーツ経験を生かせる仕事」ということで家族会議の結果、姉と2人で美容サロンを始めた。ここでも前田の負けず嫌いと明るさが生きたと言える。
引退後とプライベート
- 引退後、三洋電機に入社し、後に配偶者となる高齢の専務・田村巧氏の秘書を務める。
- 年の差34歳婚:父母の助言や家族の関係性も深く、34歳差という大きな年齢差を乗り越えて結婚。母の「10年間幸せだと思えたら、それは幸せな結婚だ」という言葉が決断の後押しになった。
- 退職後には姉と共に美容サロンを立ち上げ、前田自身は健康体操の指導を担当。国際免許も取得していた一方で「自分の手では施術したくない」と話すユーモアも。
地域貢献と教育・スポーツ振興
- 館山市スポーツ大使として、地域のスポーツ振興に長年携わっており、2008年から小学生を対象にバレーボール教室を毎年開催
- 2007年:ネパールでの「ブータン難民支援バレーボール教室」開催
- 館山市教育委員(2002年〜2004年)などを歴任し、市内のスポーツ大会やイベントへの参加、表彰などにも関与
- 2015年〜2021年:2020東京オリンピック・パラリンピック 館山市推進本部 本部長を務め、地元の事前キャンプ誘致や広報活動に尽力
- 指導普及の観点から:スポーツ現場における体罰防止について講師として発言し、「子どもたちの夢中にさせる姿こそがスポーツの本来の姿」と強調(長野県バレーボール協会)
- 番組審議会への参加:BAY FMや千葉テレビの番組審議会に出席し、館山市のPRにも協力
球歴
受賞歴
現役時代の報道
1976年 モントリオール五輪(女子:金メダル)
- 大会中の配信写真(共同通信) 7月23日:カナダ戦で前田悦智子がスパイクを決める(カナダ・モントリオール)。写真キャプションが当時日付入りで残っている。 Kyodo News Imagelink
- 決勝(対ソ連 3–0)の記録写真(フォート・キシモト) 7月30日、会場やスコアを伴う編集部向けキャプション付き(英日併記)のアーカイブ。 Kishimoto
- NHK中継の“名実況” 当日のテレビ中継で西田善夫アナが日本の優勝を「笑顔の優勝です。泣かない優勝です」と伝えたことは、のちの資料で広く言及(西田善夫)
- 英字紙の当時記事 The New York Times 1976年7月31日付に “Japan’s Women Top Russians in Volleyball” が掲載(後年の出典集でも参照が残る)。
- 新聞社アーカイブの写真特集(毎日新聞) 2019年に自社アーカイブ写真を用いて当時を振り返る特集。決勝で日本が宿敵ソ連にストレート勝ちした旨が添えられています(写真は1976年当時のもの)。 毎日新聞
- 公式結果・日本選手団名簿(当時の事実確認) 大会公式サイト(Olympics.com)の競技結果、ならびにJOCの入賞者一覧に、前田悦智子(チームNo.3)を含む金メンバーが明記。 オリンピック公式サイト - 日本オリンピック委員会
1977年 ワールドカップ(日本開催・優勝/前田は主将)
- 共同通信写真(当時の試合写真) 「日本−ハンガリー」戦で前田悦智子がスパイク。キャプションに“1977年、代々木”の記載。ほか日本−中国の配信カットも。 Kyodo News Imagelink
- 映像(テレビ録画由来のアーカイブ化) 1977年大会の日本×韓国、日本×中国など、当時放送映像の保存・再掲が複数確認できる(権利はYouTube依存)。 YouTube
- 大会要目の確認 1977年女子大会は11月8–15日、日本開催で日本が優勝。ウィキペディア
そのほか
- 自治体・博物館の展示記録 館山市で、1976女子バレー写真パネル展示の実施。
所属チーム
テレビ出演
参考文献
- 月刊バレーボール 1981年2月号 100-105ページ
脚注
外部リンク
![]() |
---|
固有名詞の分類
- 前田悦智子のページへのリンク