白井貴子_(バレーボール)とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 白井貴子_(バレーボール)の意味・解説 

白井貴子 (バレーボール)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/12/26 01:14 UTC 版)

白井 貴子
Takako Shirai
基本情報
国籍 日本
生年月日 (1952-07-18) 1952年7月18日(72歳)
出身地 岡山県岡山市
ラテン文字 Takako Shirai
身長 180cm[1]
選手情報
愛称 ビッグ
ポジション レフト
ブロック  
獲得メダル
バレーボール
オリンピック
1976 モントリオール
1972 ミュンヘン
世界選手権
1974 メキシコ
ワールドカップ
1977 日本
テンプレートを表示

白井 貴子(しらい たかこ、現姓:高木、1952年7月18日 - )は、元女子バレーボール選手。

1970年代を代表する大型エースアタッカーで、1972年ミュンヘン五輪で銀メダル、1976年モントリオール五輪では金メダルを獲得した。芸能プロダクションカロスエンターテイメント所属。

来歴

岡山県岡山市出身。出身地を北朝鮮に分けた両親のもとに生まれ、中学2年の時にバレーを始める。

1968年片山女子高校を中退後、倉紡倉敷に入社。18歳の時に同チームの白井省治監督の養女となり日本国籍を取得した。

1972年ミュンヘン五輪で銀メダルを獲得後、現役を引退し、1973年1月に勤務先の倉紡倉敷を退社した。しかし同年6月に現役に復帰を発表し、8月に日立に入社した。

打倒ソ連へ向け、距離の長いBクイック「ひかり攻撃」を、セッター松田紀子と共に猛特訓の末に完成させる[2][3]

1976年モントリオール五輪の決勝でソ連をストレートで下し、金メダルを獲得。

モントリオール五輪後、現役を引退し岡山に帰省。1976年10月に婚約発表し、12月に正式に日立を退社した。しかし年内には婚約を解消した。

1977年1月末に上京、日立武蔵のコーチとして後輩の指導にあたった。その後現役復帰し同年ワールドカップに出場し優勝した。

1978年に現役を引退。国土計画とダイエーからチーム加入の勧誘があったが、限界を感じて断った[4]

2000年、日本人女性で初めてバレーボール殿堂入りを果たした。

80年代にはテレビ朝日の番組『ビートたけしのスポーツ大将』に、バレーボールコーナーの助っ人として出演、往年のプレーを披露した。現在は、杉並区教育委員、NPO法人バレーボール・モントリオール会代表理事。

球歴

受賞歴

  • 1970年 - 第4回日本リーグ ベスト6
  • 1973年 - 第7回日本リーグ ベスト6
  • 1974年 - 第8回日本リーグ 敢闘賞、サーブ賞、ベスト6
  • 1975年 - 第9回日本リーグ 最高殊勲選手賞、スパイク賞、ベスト6
  • 1977年 - 第11回日本リーグ 最高殊勲選手賞、スパイク賞、レシーブ賞、ベスト6
  • 2007年 - プレミアリーグ Vリーグ栄誉賞

所属チーム

テレビドラマ出演

脚注

外部リンク




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「白井貴子_(バレーボール)」の関連用語

白井貴子_(バレーボール)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



白井貴子_(バレーボール)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの白井貴子 (バレーボール) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS