対ソ交渉とは? わかりやすく解説

対ソ交渉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 05:13 UTC 版)

東郷茂徳」の記事における「対ソ交渉」の解説

東郷和平向けた意見交換の場を設けるため、総理大臣外務大臣陸海軍大臣および統帥の長(参謀総長軍令部総長)の6人による会合を開くことを他の5人に提案する当時、最高意思決定機関としては、この6人に加えて次官級出席する最高戦争指導会議があったが、この席では軍の佐官参謀作成起案した強硬な原案審議することが多く、それを追認する形になりがちであった東郷トップが下からの圧力受けず腹蔵なく懇談できる会議求めたのである。他の5人もこれに賛同し内容一切口外しない条件で、最高戦争指導会議構成員会合として開かれることになった1945年5月中旬開かれた最初最高戦争指導会議構成員会合で、陸軍参謀総長梅津美治郎が、ドイツ敗戦後日本とは中立状態にあったソ連極東大兵力を移動しはじめていることを指摘しソ連の参戦防止するための対ソ交渉の必要性議題になった。そこで東郷は、ソ連仲介して和平交渉を探るという方策提案した。これに対し陸軍大臣阿南惟幾は、日本負けたわけではないので和平交渉よりもソ連の参戦防止主目的とした対ソ交渉とすべきだとして東郷見解反対する。結局米内光政海軍大臣が間に入り、まずソ連の参戦防止好意的中立獲得第一目的とし、和平交渉ソ連の側の様子をみておこなうという方針決定された。この会議では、ソ連の参戦防止のため、代償として樺太返還漁業権譲渡南満州中立化などを容認することで一致した。 この決定受けて東郷は、ソ連通の広田弘毅元総理を、疎開先の箱根滞在していたマリク駐日ソ連大使のもとに派遣しソ連意向をさぐることにした。マリク広田旧知間柄であった。しかし2度会談ではお互いが自らの意見明確にせず、相手具体要求を探る形に終始したマリクにはソ連の対日参戦意向知らされていなかったが、モロトフ外相対す会談報告には「具体的な要求受け取らない限りいかなる発言できない回答するつもりだ」と記した。これに対してモロトフはこの立場支持し今後広田からの要請でのみ会談おこない一般的な問題提起しかなければその報告外交クーリエ便だけにとどめよ訓令した。その後広田マリク2度会談おこない6月29日最後会談では日本撤兵を含む満州国中立化ソ連石油日本漁業権との交換・その他ソ連の望む条件についての議論用意条件として挙げたが、成果をあげることなく終わったモスクワにあってソ連動向探っていたソ連大使佐藤尚武ソ連仲介とした和平交渉斡旋求め東郷訓令反対する意見具申したが、東郷受け入れるところとはならなかった。 この最高戦争指導会議構成員会合の対ソ交渉の決定により、それまでスウェーデンスイスバチカンなどでおこなわれていた陸海軍外務省などの秘密ルート通じておこなわれていた講和をめぐる交渉はすべて打ち切られることになったソ連大使時代苦労をした東郷はもともとソ連外交狡猾さ知り尽くしていたはずにもかかわらず東郷結果的にソ連期待する外交展開してしまったわけである。これについては、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}ソ連大使時代から気心通じていたモロトフ外相心情期待したのだという説もあるが[要出典]、当時外務省東郷直接仕えていた加瀬俊一(としかず)が証言するように、強硬派陸軍が、ソ連交渉だけなら(中立維持のための交渉という前提で)目をつぶるというふうな態度だったため、東郷はそれに従ったのだ、というふうに解釈されるのが一般的である。また昭和天皇ソ連交渉には好意的であったことも東郷考え影響していた。東郷自身ポツダム宣言受諾後8月15日枢密院おこなった説明の中で、米英が「無条件降伏ではない和平」「話し合いによる和平」を拒否する態度だったために話し合い事態導きたかったが、バチカン・スイス・スウェーデンを仲介とした交渉はほぼ確実に無条件降伏前提になるとみられたので放棄しソ連への利益提供で日本利益にかなうよう誘導して終戦持ち込むことが得策とされたと述べている。 ソ連側態度不明なまま時間推移していく中、6月22日天皇臨席最高戦争指導会議構成員会合の場で、参戦防止だけではなく和平交渉ソ連求めるという国家方針天皇意思により決定された。鈴木東郷陸海軍近衛文麿元総理をモスクワ特使として派遣する方針決め7月入りソ連側にそれを打診した。しかしソ連側は近々開催されるポツダム会談準備のため忙しということ近衛特使案の回答先延ばしにするばかりであった。こうして7月26日ポツダム宣言日本直面することになる。 ポツダム宣言知った東郷は、「1.この宣言基本的に受諾した方がよい 2.但しソ連宣言参加署名していないことや内容曖昧な点があるため、ソ連とこの宣言の関係をさぐり、ソ連との交渉通じて曖昧な点明らかにするべきである」という結論出し参内して天皇話しあった。このとき、昭和天皇ポツダム宣言に対してどのような反応示したかは不明確である。東郷自身メモでは「このまま受諾するわけにはいかざるも、交渉基礎となし得べしと思わる」と述べたという。一方東郷部下だった加瀬俊一(としかず)は「原則的に受諾可能と考える」と述べた記しているが、纐纈厚はこの発言確認不可能で、「天皇は、特に宣言重大な関心を示さなかったという」と記述している。天皇宣言具体的な点についてはソ連通じた折衝明らかにしたいという東郷意見賛同し木戸幸一との会談の後、モスクワでの交渉結果を待つという東郷意見認めた。 しかし阿南陸相東郷見解猛反対し、ポツダム宣言全面拒否主張するまたもともと和平派立場だった鈴木首相米内光政海軍大臣は、「この宣言軽視して大したことにはならないソ連交渉和平実現する」という甘い認識のもと、ポツダム宣言には曖昧な見解であった結局ポツダム宣言に対しては「受諾拒否もせず、しばらく様子をみる」ということになった。しかし、アメリカ短波放送がすでに宣言の内容広く伝えたためこれを無視できないとして、コメントなしの小ニュースとして国内には伝えこととした。だが、7月28日朝刊には「笑止」(読売新聞)「黙殺」(朝日新聞)といった表現現れた。28日午前東郷欠席した大本営政府連絡会議では、阿南豊田副武軍令部長梅津美治郎参謀総長政府によるポツダム宣言非難声明強硬に主張米内海相妥協案として「宣言無視する」という声明を出すことを提案し、これが認められた。同日鈴木首相会見は「三国共同声明カイロ会談焼直し思ふ政府としては何等重大な価値あるものとは思はない、ただ黙殺するのみである。われわれは戦争完遂飽く迄も邁進するのみである」という表現報じられた。連合国はこの日本語を「reject拒否)」と訳した東郷鈴木発言閣議決定違反であると抗議している こうして8月6日アメリカ広島への原子爆弾投下8月8日ソ連の対日参戦という絶望的な状況変化日本訪れることになる。

※この「対ソ交渉」の解説は、「東郷茂徳」の解説の一部です。
「対ソ交渉」を含む「東郷茂徳」の記事については、「東郷茂徳」の概要を参照ください。

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