シンクレア石油の利権獲得運動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/11 22:15 UTC 版)
「北樺太石油」の記事における「シンクレア石油の利権獲得運動」の解説
誕生したばかりのソ連は第一次世界大戦とロシア内戦により荒廃した国家を復興するため、1920年11月に「コンセッションの一般的な経済的・法的条件」を布告。外国資本への利権供与(コンセッション方式)により、天然資源開発などを進める方針を打ち出していた。 こうした中、アメリカ合衆国の新興企業であるシンクレア石油会社(英語版)は、樺太・シベリア・中国での油田開発を目的に合弁企業の設立を日本に持ちかけた。この提案に対し鈴木商店が関心を示したが、海外資本の参入を避けたい日本政府は消極的な態度をとった。このためシンクレア石油は極東共和国に接近し、1922年1月に北樺太油田の調査権・採掘権・販売権について仮契約を締結。極東共和国がソ連に併合された後、シンクレア石油は1923年11月にソ連と利権の仮協定を締結し樺太へ油田調査隊を派遣しようとした。しかし、日本政府は同年4月24日の閣議で、シンクレア石油とソ連の契約を認めず、かつシンクレア石油の北樺太調査を拒否すると決定しており、調査を妨害した。ハリー・フォード・シンクレア(英語版)社長はアメリカ政府の支援を得ようと国務省に働きかけたが、スタンダード・オイル寄りで対ソ交渉ではコーカサスの石油利権獲得に重点を置いていたチャールズ・エヴァンズ・ヒューズ国務長官は協力せず、さらにシンクレア社長が贈賄疑惑(ティーポット・ドーム事件)の発覚により信用を失ったため、日本との利権獲得競争に敗北。最終的に1925年2月、ソ連最高国民経済会議でシンクレア石油の利権契約の解消が承認された。
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