交渉の経緯
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「日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との共同宣言」の記事における「交渉の経緯」の解説
鳩山は、内閣総理大臣就任早々の記者会見で「第三次世界大戦回避のためにも東西陣営は貿易を盛んにすべきだ」と発言し、対ソ交渉への意気込みを見せた。これを受けて駐日ソ連代表部からコンタクトがあり、1955年(昭和30年)1月7日と25日にアンドレイ・ドムニツキー首席代理が「音羽御殿」を極秘に訪問し、ソ連側に諸懸案について交渉する用意がある旨を申し入れた。ドムニツキーは25日「ソ連政府からの文書」として発信者の氏名も日付も記載されていない文書(「ドムニツキー書簡」)を鳩山に手渡した。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0} ソ連邦は、対日関係正常化の熱望に促され、周知のごとく、終始一貫して両国関係の調整を唱えてきた。日・ソ関係正常化の用意ある旨の意思表示は、なかんずく周知の一九五四年十月十二日付の中ソ共同宣言及び十二月十六日のソ連邦外務大臣ヴィ・エム・モロトフ氏の声明中に行われている。 鳩山総理大臣が最近の声明中において、日・ソ関係の解決に賛意を表していることも世間に知られている。日・ソ関係正常化の希望は、また重光外務大臣によつて、一九五四年十二月十一日の声明及びその後の諸声明において表明されている。 このような情勢を考慮に入れて、ソヴィエト側は、日・ソ関係の正常化のため執りうべき措置について、意見の交換を行うことが事宜に適するものと信ずる次第である。 ソヴィエト側は、モスクワ又は東京のいずれかにおいて行われうべき交渉のため代表者を任命する用意あり、この点についての日本側の意向を承知したいと考えるものである。 —ドムニツキー書簡、 6月3日から、イギリスのロンドンにあるソビエト連邦大使館で国交正常化交渉が開始された。日本側の松本俊一全権大使とソ連側のヤコフ・マリク駐イギリス大使による交渉は北方領土問題で難航し、保守合同による自由民主党の発足と対ソ強硬派の活動という日本側の国内事情もあって、交渉は難航。同年12月にソ連は日本を含んだ国際連合への18ヵ国の一括加盟案に拒否権を発動した。 1956年(昭和31年)3月20日に交渉決裂に至り、翌日からソ連は北海道北方の海域に漁業制限区域(「ブルガーニン・ライン」)を設け、日本の漁船を締め出したばかりかその拿捕や漁民の連行が相次ぎ、日本の水産業に打撃を与えた。 しかし、ソ連との国交回復と国際連合加盟を自らの政権の中心課題とする鳩山首相の熱意は強く、モスクワへ渡った河野一郎農林大臣とニコライ・ブルガーニン首相(閣僚会議議長)とのタフネゴシエーションの結果、日ソ漁業条約が結ばれた。また、日ソ漁業交渉の決着は国交正常化への地ならしともなった。 10月12日に鳩山首相(第3次鳩山一郎内閣)は河野農林大臣などの随行団と共にモスクワを訪問し、ニキータ・フルシチョフ第一書記などとの首脳会談が続けられた。鳩山側は「2島返還を受諾した場合、沖縄をアメリカの領土にする」としたジョン・フォスター・ダレス国務長官の発言(「ダレスの恫喝」)や「歯舞、色丹の即時返還」「国後、択捉は日本固有の領土」とする自民党の党議拘束による制約を受けていたが、焦点の北方領土問題はまず国交回復を先行させ、平和条約締結後にソ連が歯舞群島と色丹島を日本に譲渡するという前提で改めて平和条約の交渉を実施するという合意がなされた。 10月19日にモスクワに於て鳩山・ブルガーニン両首相が「日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との共同宣言」に署名し、両国での批准を経て12月12日に東京において批准書が交換されて発効した。
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