交渉の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/13 10:05 UTC 版)
「中華人民共和国の世界貿易機関加盟」の記事における「交渉の歴史」の解説
中国のWTO加盟交渉は、極めて特殊性を有するものであった。というのは中華民国が旧関税貿易一般協定(GATT)の原締約国であったが、同国政府が台湾に移転した後の1950年にGATTからの脱退を通告したことで、中国は長い間GATT体制の枠組みの外に置かれていたからである。しかし、1986年7月、中国(中華人民共和国)政府は「GATT締約国としての地位の回復」を申請した。新規加入の手続きを申請しなかったのは、中国政府は、台湾政府による1950年の脱退通告は無効なものであるとの立場をとったからである。これに基づいて中国にGATT締約国としての地位を認めるための条件を定める交渉が開始された。旧GATTはプラグマティズム(実務主義)を信条とする柔軟な組織であったので、交渉の名称いかんにかかわらず、実質的には新規にGATTに加入する場合と同様の手続き、すなわち作業部会(Working Party)を設けて、そこで中国の加入条件を審査するとし、以後15年にわたる中国の加入交渉が始まった。折しも新ラウンド(ウルグアイ・ラウンド)の交渉が開始されようとしており、新ラウンドへの参加資格は、既存のGATT締約国のみならず、交渉開始までに加入申請が受理され、作業部会が設置されている国にも開放されることとされていたことから、中国のGATT加入申請のタイミングにも意義があった。中国のGATT加入交渉は、当初は米国の支援もあって順調に進むかに見えたが、1989年6月の天安門事件により情勢が一変し、交渉は暗礁に乗り上げた。交渉の再活性化が図られたのはウルグアイ・ラウンドの交渉が実質的に終結した1993年末から1994年にかけてであり、中国もこの機会を逸するとWTOの原加盟国になれないことが分かっていたため、大幅な譲歩を示して事態の打開を試みたが、結局時間切れによりGATT加入は実現しなかった。
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