ヤコフ・マリクとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > ヤコフ・マリクの意味・解説 

ヤコフ・マリク

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/07/05 13:11 UTC 版)

Yakov Malik 1970

ヤコフ・アレクサンドロヴィッチ・マリクロシア語: Яков Александрович Малик[1], 1906年12月6日 - 1980年2月11日)は、ウクライナ出身のソ連外交官駐日大使、外務次官、国連大使、駐イギリス大使を歴任。

経歴

1906年12月6日ハリコフ県ロシア語版英語版オストロヴァーホフカ村で生まれた。

1930年ハリコフ人民経済大学ロシア語版英語版卒業。卒業後はウクライナ(当時:ウクライナ・ソビエト社会主義共和国)で勤務に就く。1937年、ソ連外務人民委員部(ソ連外務省)外交・領事館職員大学卒業、外務人民委員部に入省。出版課に配属され、出版課長補佐を務める。1938年、全連邦共産党(ボリシェヴィキ、後のソビエト連邦共産党)に入党。

1939年、在日本ソビエト連邦大使館参事官となる。第二次世界大戦中の1942年より駐日ソ連大使を務める。終戦直前の1945年6月には疎開先だった箱根強羅ホテルで、広田弘毅首相の訪問を受け、非公式での終戦交渉を行った。8月には日本政府に日ソ中立条約の破棄と最後通牒、後にソ連対日宣戦布告文書を手交し、1945年8月9日ソ連対日参戦に関わった。大戦終結後の1946年には、在日連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)政治顧問となった。

1946年8月に外務次官となり、1948年から1952年までの間、国連大使。在任中の1951年6月23日には、ラジオ放送を通じて朝鮮戦争休戦協定締結を提案し、これを契機に1953年7月27日まで断続的に休戦交渉が行われることとなった。また、情報機関を統括するソ連情報委員会議長も務めた。1952年から1961年までの間、共産党中央委員候補。

ヨシフ・スターリンの死後、1953年に駐イギリス大使に任命された。駐イギリス大使時代の1955年から1956年にかけ、日本の松本俊一全権代表と「日ソ国交回復交渉」を行い、日ソ共同宣言締結に関わった。任期満了後の1960年から再び外務次官となり、1968年から1972年までの間、再び国連大使を務める。その際、アメリカ国連大使に、冷戦問題を解決するべく、アメリカ政府がソ連のNATO加盟を支援してくれるよう、真剣に打診し続けていた。

1976年、定年退職し、年金生活者となる。1980年2月11日死去、満73歳。

脚注

  1. ^ ラテン文字転写例: Yakov Alexandrovich Malik

関連項目

外交職
先代
コンスタンチン・スメタニン
駐日ソビエト連邦大使
第7代:1942年 - 1945年
次代
イヴァン・テヴォシアン



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ヤコフ・マリク」の関連用語

ヤコフ・マリクのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ヤコフ・マリクのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのヤコフ・マリク (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS