常任理事国による協議
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/02 12:28 UTC 版)
「1971年の国際連合事務総長の選出」の記事における「常任理事国による協議」の解説
それまでの事務総長の選出は、米ソ両大国がコントロールしていた。しかし、今回の選出では、国連における中国の議席の状況が不透明であったため、複雑な状況になっていた。1970年11月20日、国連総会の多数派は、中華民国を国連から追放し、中華人民共和国に置き換えることを決議した。この投票は発効に必要な3分の2には達しなかったが、共産党政府の支持者は1971年の勝利を確信していた。1971年10月25日、総会の3分の2が国民党政府の国連からの追放を決議した(アルバニア決議)。中国の拒否権は、米ソのどちらにも属さない第三世界の共産党政府(中華人民共和国)の手に委ねられることとなった。 アメリカとソ連は、中国の立場を見極めるために、事務総長職についての議論を避けていた。選挙戦の初期から、マックス・ヤコブソンは、中華人民共和国に受け入れられる唯一の候補者であることをアピールしていた。中国側は、事務総長の選出については公には触れなかった。しかし、他の常任理事国に対しては、ヘレーラとヤコブソンが最有力候補であることを明らかにしていた。 12月6日、常任理事国はようやく事務総長選出のための会議を開始した。ウ・タントが退任の強い決意を表明したにも関わらず、ソ連は12月3日に勃発した第三次印パ戦争に対処するため、少なくとも数か月間はウ・タントを起用したいと表明した。ウ・タントは出血性潰瘍により病院で治療を受けていたが、ソ連のヤコフ・マリク大使は、ウ・タントに「宇宙飛行士になれるほどの100%の健康状態」になることは期待しておらず、2週間程度休暇を取れば十分だろうと述べた。アメリカとイギリスの大使は、ウ・タントの退任を認めるべきだと主張し、アメリカのウィリアム・P・ロジャース(英語版)国務長官は、投票用紙にウ・タントの名前が載っていたら拒否権を行使するようブッシュ大使に指示した。
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