ヤコフ・フリエールとは? わかりやすく解説

ヤコフ・フリエール

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/05 08:02 UTC 版)

ヤーコフ・ヴラディーミロヴィチ・
フリエール
記念碑(オレホヴォ-ズエヴォ所在)
基本情報
出生名 Яков Владимирович Флиер
生誕 (1912-10-21) 1912年10月21日
出身地 ソビエト連邦 モスクワ州オレーホヴォ=ズーイェヴォ
死没 (1977-12-18) 1977年12月18日(65歳没)
ジャンル クラシック音楽
職業 ピアニスト、音楽教師
担当楽器 ピアノ

ヤーコフ・ヴラディーミロヴィチ・フリエールロシア語: Я́ков Влади́мирович Флие́р[1]英語: Yakov Vladimirovich Flier1912年10月21日 モスクワ州オレーホヴォ=ズーイェヴォ - 1977年12月18日 モスクワ)は、ソビエト連邦ピアニスト・音楽教師。姓のラテン文字転写については、 Fliere もしくは Fliyer とする場合もある。

経歴

左からDossor、フリエール、Johnstone、エミール・ギレリス、アンドレ、Dumortier
出生から修学期

1912年、モスクワ州オレーホヴォ=ズーイェヴォでユダヤ人家庭に生まれた。1923年までS.N.コルサコフにピアノを学び、同1923年よりモスクワに居住し、モスクワ音楽院のピアノ科で学んだ。1934年に卒業し、同音楽院研究科で1937年までコンスタンチン・イグームノフの下で学んだ。

ピアノ奏者として

1935年からモスクワ・フィルハーモニーのソリストとして国内外で演奏した。活発な音楽活動を行い、1930年代までにロシアで最も著名な演奏会ピアニストであった。コンクールへの出場としては、1936年ウィーンで行われた国際コンクールに出場して優勝した。その際の2位はエミール・ギレリスであった。1938年にはブリュッセルで行われたイザイ国際コンクールに出場し、3位となった。この時はギレリスが優勝した。1949年には手の故障によりソロ演奏活動を停止し、室内アンサンブルの演奏に限定した。しかし、1959年には再び出演もしている。

19601970年ベルギーチェコスロバキアハンガリー日本イギリスフランスなど多くの国で演奏を行った。

教育者としては、1937年から母校のモスクワ音楽院で教えており、1945年に教授昇格。1965年からはピアノ部門の責任者であった。

1977年にモスクワで死去。墓はツンツェフスク墓地にある。

受賞・栄典

演奏ならびに演奏活動について

シューマンショパンリストラフマニノフなど専らロマン派音楽の演奏家であったが、それでも同時代のソ連の音楽、例えばハチャトゥリアンの《ピアノ協奏曲》や、とりわけカバレフスキーの作品を演奏している。 同世代のエミール・ギレリスとは互いに好敵手であった。1960年代から1970年代にかけて西欧でも演奏するようになった。

指導学生

長年にわたって後進を指導し、多くの後進を育てた。指導を受けた著名な学生には以下がいる。

家族・親族

  • 父:ウラジミール・ミハイロヴィチ・フリエールは時計職人。
  • 母:エリザベータ・ラザレヴナ・フリエール
  • 息子:アンドレイ・フリエールロシア語版は芸術学者・文化学者。

外部リンク

脚注

  1. ^ ヤーカフ・ヴラディーミラヴィチュ・フリイェール




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