佐藤首相の密使
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1966年頃から、面識のあった愛知揆一の紹介で時の首相・佐藤栄作に接触するようになる。佐藤は「沖縄の祖国復帰が実現しない限り、日本の戦後は終わったとは言えない」と演説したように、沖縄返還に並々ならぬ熱意を持って臨んでいた。翌1967年(昭和42年)、自由民主党幹事長・福田赳夫を通して、沖縄問題についての米国首脳の意向を内々に探って欲しいとの要請が伝えられ、これを期に密使として度々渡米し、極秘交渉を行うこととなる。若泉と会ったのはアメリカ国家安全保障会議スタッフのモートン・ハルペリンであった。ハルペリンは沖縄返還交渉の方針を決めた国家安全保障覚書13号の起草者であった。 「核抜き・本土並み」返還の道筋が見えてきたところ、日米首脳会談直前の1969年(昭和44年)9月30日、国家安全保障担当大統領補佐官のヘンリー・キッシンジャーより、「緊急事態に際し、事前通告をもって核兵器を再び持ち込む権利、および通過させる権利」を認めるよう要求するペーパーが提示された(なお、密使としての活動で、若泉はコードネーム「ヨシダ」、キッシンジャーは「ジョーンズ」を用いた)。同年11月10日 - 11月12日の再交渉で、若泉は「事前通告」を「事前協議」に改めるよう主張、諒解を得る。この線で共同声明のシナリオが練られることとなり、11月21日に発せられた佐藤=ニクソン共同声明で、3年後の沖縄返還が決定されることとなった。 なお若泉は極秘交渉の経緯を記した著書『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』(文藝春秋、1994年)において、核持ち込みと繊維問題について作成した日米秘密合意議事録の存在について触れている。同書によれば、佐藤とニクソンは、ウエストウイング・ オーバルオフィス隣の「書斎」で、二人きりになって署名したという(この覚書は佐藤により持ち去られ、のち2009年(平成21年)に本人宅で発見された)。
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