佐藤領事の転勤
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 13:54 UTC 版)
事件について、古屋事件の対処に失敗した佐藤領事の負うべき責任は大きかった。しかし、上述の朝日新聞のインタビューなどでも明らかなように、佐藤領事は、事件はあくまでペルーの反政府勢力の引き起こしたものという見解に固執していた。 東京の外務省本省は、佐藤領事の行動に対して厳しい批判や処分を加えるような雰囲気ではなく、むしろ「佐藤領事の行動をよしとする雰囲気すらあった」と言われる。その背景には、戦時下の日本にあっては強気の外交官が好まれ、強気ででた多少の失策を看過する傾向があった。また移民関係の一端を管轄している拓務省が調査員を派遣して事件を詳しく調べるべき、と主張しており、外務省が拓務省の介入を避けるためだったともいわれる。 しかし、被害者の帰国問題に関しても、北田公使と佐藤領事が、それぞれ別々に東京への報告と意見具申するという状況であった。このように北田公使と佐藤領事の不仲は決定的であり、東京側は公使と領事の相互の間に密の連絡を取るようにたしなめる公電を送っている。 北田公使は領事の更迭を東京に強く要請し、日系移民の中にも領事の失策や領事と結びついたペルー中央日本人会の幹部を糾弾する動きがでたため、外務省も決断するに至った。7月末付で佐藤領事をメキシコ公使館三等書記官兼領事として転勤させた。
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