中朝関係前史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 18:42 UTC 版)
モンゴルの高麗侵攻以来、元朝の属領となっていた高麗は王統がモンゴル貴族化していたが、恭愍王の代になって紅巾の乱で中国が混乱したことで元の統治が弱まり、自立を目指すようになった。王は元の皇后を出した奇氏(奇皇后)の勢力を粛清して独立を図ったが、倭寇と紅巾軍に悩まされて国内外は混乱。成立間もない明の冊封を受けようとしたのが理由で、恭愍王は親元派に暗殺された。高麗は一時的に北元との関係を復活させるが、この内乱を制した武人の李成桂が、1392年に禅譲を受けて主君恭譲王から王位を継ぎ、明の洪武帝から「朝鮮」の国号と権知高麗国事の号を賜って、朝鮮を創始するに至った。一方で、2年後に旧主を含む高麗の王統は皆殺しにされた。 朝鮮でも日本と同様に、1401年に明の建文帝から第3代の太宗が誥命と金印を下賜され、中国で靖難の変があって、1403年に永楽帝が改めて太宗を「朝鮮国王」として封じて、正式に冊封体制に入った。しかし朝鮮は、日本よりも交流が密で、年に3回 の朝貢使節を送るという1年3貢 を行った。これら4節には望闕礼を執り行うこととなっており、朝鮮王と王世子は明制の官服である冕服を着て、王城漢城より明の皇帝に向けて遥拝儀礼を行って、百官と共に万歳三唱した。 このように、明の蕃王である朝鮮国王の臣下としての立場は明確であり、後に秀吉が明遠征を先導せよなどと唆したことは全く受け入れられない要求であった。 1591年5月、秀吉の国書を受けた朝鮮(後述)では、宗主国である明に奏聞するべきかどうか議論になった。東人派の間では情勢の不明の内に奏聞するのは混乱させるだけで、波風を立てると否定的で、奏聞の代わりに聖節使に任命した金応南に事情を説明させることにした。ところが明では、すでに4月に琉球を訪れた商人陳申が通報し、それが福建と浙江の巡撫という地方官僚を介して正式な報告として上げられていた。しかも内容は日本が明侵攻を計画し朝鮮がその先導役となるというものであって、明は朝鮮が日本と共謀しているのではないかとの疑念を抱いていた。遼東巡撫に兵を派して国境の警備を固めさせるとともに、朝鮮の情勢を内偵させた。 明は8月に来訪した金応南の説明に満足し、朝鮮節使を慰労して銀2万両を送った。ところが、入れ替わり遼東都司から征明嚮導の真偽を詰問する文書が、同じ頃に朝鮮朝廷に届いて彼らは驚愕した。慌てた朝鮮朝廷では、柳成龍と崔岦が作成した朝鮮国王名義の陳倭情報奏文 を韓応寅に持たせて急派した。その間も9月には薩摩の在日明国人の医師許儀俊の「すでに朝鮮は日本に服属して征明嚮導に協力しようとしている」 という追いうちとなる報告が明にあり、また琉球王国からも使者が来て奏聞された。鄭迥や蘇八といった帰化中国人の複数の情報筋からも、朝鮮が日本に服属したという内容が明には届けられていた。 1592年正月頃に明の朝廷に陳奏文が提出され、改めて日朝交渉の経緯を詳しく説明したが、朝鮮通信使を日本に送った事実はひた隠しにされ、中国人による通報などは朝鮮に対する誣告であると非難するばかりで、日本の出兵計画を大それたことで虚偽だと片づけていた。このため結果的に明が「征明嚮導」の疑念を払拭するには至らず、戦役が起こった後も、明の猜疑心は消えなかった。むしろ(朝鮮がないと言っていた)朝鮮出兵が現実のものとなったことで明側の疑念は深まったのであった。遼東の明将らは朝鮮朝廷を難詰し、指揮権の統一にも反対して、朝鮮民衆の日本軍協力を疑い、朝鮮に対しては一定の距離を置いた。
※この「中朝関係前史」の解説は、「文禄・慶長の役」の解説の一部です。
「中朝関係前史」を含む「文禄・慶長の役」の記事については、「文禄・慶長の役」の概要を参照ください。
- 中朝関係前史のページへのリンク