征明嚮導とは? わかりやすく解説

征明嚮導

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 18:42 UTC 版)

文禄・慶長の役」の記事における「征明嚮導」の解説

天正15年1587年5月初旬薩摩川内に在陣中に(すでに秀吉帰順していた)宗義調使者として佐須景満 と家臣柳川調信谷康広の3名が来て秀吉拝謁願い出た。彼らは秀吉前年予告した朝鮮出兵高麗征伐)を何とか取り止めてもらい、貢物人質出させることでことを済ませることはできないか請願に来たのである。しかし、九州征伐成し遂げたばかりの秀吉は、次は琉球朝鮮だと考えており、聞き入れかったばかりか、朝鮮国王自らが入朝することを要求し、それが無い場合征伐するとした。そして彼ら宗氏朝鮮との交渉役に命じて入朝斡旋させる任務与えた6月7日帰路箱崎宗義調宗義智親子謁見して、直にその旨重ねて厳命した。このように宗氏に強い態度出た背景としては、琉球島津従属したように、朝鮮対馬従属していると秀吉誤解していたためである。ルイス・フロイスも「朝鮮年毎貢物として米一万俵を対馬国主に納めていた」と書いていて、このような認識秀吉留まらず当時一般的なものであったことが分かっている。ところが実際にはこの米というのは朝鮮側から倭寇防止のために下賜される歳賜米のことで、量も僅か100石に過ぎず対馬宗氏朝鮮貿易経済依存していて、逆に従属的な立場であり、対外的には嘘を吐いていたに過ぎなかった。前述のように偽使用いて苦労して朝鮮との関係修復したところだった。秀吉難題への対応を苦慮した彼らは形式的にでも双方を満足させねばならず、折衷案がないかと模索した9月宗氏谷康広を日本国王偽使康広)として渡海させ、秀吉日本統一告げたうえで、新国となった秀吉祝賀する通信使の派遣朝鮮側要請した。これは通信使を朝鮮国王入朝代わりとして事態収めようという配慮であったが、朝鮮側書簡文言傲慢であると主張し朱子学凝り固まった宣祖も「これまでの国王廃して新王を立てた日本簒奪の国であり」 大義諭して返せ命じた。それを受けた大臣らは「化外の国には礼儀に従って接する必要はいとして水路迷昧 を理由要請断った日本側には記録はない が朝鮮側の記録 によると、報告受けた秀吉激怒し交渉失敗裏切り結果であるとして谷康広を一族共々処刑したといわれる期限越えて1年間進展なかったので、天正17年1589年3月秀吉朝鮮国王遅参責め入朝斡旋を再び宗義智命じた6月、義智は博多聖福寺外交景轍玄蘇正使として自らは副使となり、家臣柳川調信博多豪商島井宗室など25名を連れて朝鮮渡った漢城府朝鮮国王拝謁した一行は、重ねて通信使の派遣要請し宗義智は自らが水先案内人務めるとまで申し出た。ところが朝鮮側先に誠意見せろ数年前倭寇起こした事件持ち出して対馬逃亡した疑われる朝鮮人の叛民・沙乙背同(サウルベドン)なる人物の引き渡し要求した。義智もこれに応えてすぐに柳川調信対馬帰し、沙乙背同と数名倭寇捕縛し連行 させたので、断る理由なくなった朝鮮側はついに通信使の派遣応じた返礼宗義智孔雀火縄銃献上した天正18年1590年3月漢城府発した通信使は、正使西人派黄允吉副使東人派金誠一書状官許筬(許筠の兄)ほか管楽50余名という構成で、4月29日釜山から対馬渡って滞在1ヶ月した。このとき金誠一宴席に轎(駕籠のこと)に乗って後からやってきた宗義智無礼怒ったので、謝罪に轎夫を斬首にするという事件があった。京都到着したのは7月下旬で、大徳寺を宿とした。しかし秀吉小田原征伐奥州仕置のために9月1日まで不在で、凱旋後もしばらく放置された。 11月7日になってようやく秀吉聚楽第引見したが、義智とその舅小西行長共謀して通信使は服属使節であると偽って説明して秀吉朝鮮日本帰服したものだと思い込んでいたようである。それで秀吉定められ儀礼もほとんど行わずに、国書贈物入貢)を受け取っただけで満足し中座して赤子鶴松抱いて再び現れて、使者の前で小便漏らした我が子笑い終始上機嫌だった対等な国からの祝賀使節のつもりだった通信使一同侮辱受け取り憤慨したが、正使副使にはそれぞれ400両、その他の随員にまでも褒美品々分け与えられ、功が労われた。もちろん返答用意もなく、儀礼反すると通信使が抗議した後で僧録西笑承兌起草し、堺で逗留していた一行国書届けられた。 その内容は、秀吉自らは「日輪の子」であるという感生帝説披露して帝王相応し人物であると主張したうえで、大明国征服して日本の風俗や文化未来永劫中国植え付けるという大抱負述べ先駆けて入朝」した朝鮮評価して安堵約する一方で、「征明嚮導」つまり明遠征軍先導をすることを命じ応じるならば盟約はより強固になるとするものだった。そして全ては「只ただ佳名三国顕さんのみ」と秀吉個人功名心誇示してもいた。文章一読した通信使は属国扱い驚愕し宗義智と玄抗議した。玄秀吉本意とは異なる嘘の説明誤魔化していたので、それを信じた金誠一誤字であると考えた閣下」「方物」「入朝」の文字書き換え要求して食い下がったが、もはや一刻も早く帰還すべきと考えていた黄允吉そのまま出立した天正19年1591年1月対馬到着2月朝鮮帰国し、玄柳川調信同行した

※この「征明嚮導」の解説は、「文禄・慶長の役」の解説の一部です。
「征明嚮導」を含む「文禄・慶長の役」の記事については、「文禄・慶長の役」の概要を参照ください。

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