征夷をめぐる対立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/13 23:59 UTC 版)
「日本の古代東北経営」の記事における「征夷をめぐる対立」の解説
延暦4年9月以降、長く鎮守副将軍であった百済俊哲が大伴家持の後任として鎮守将軍に進む。 延暦6年1月21日(787年2月13日)の太政官符によって、都の王臣貴族たちや現地の国司官人たちが、蝦夷たちと私的に交易して馬や俘奴婢を手に入れていたことが、敵対する蝦夷の利になっているため、王臣・国司・百姓らが夷俘と交易することが禁じられる。馬や俘奴婢との交換で蝦夷側に渡っているのは、敵の防御のための冑の材料となる綿や農具の材料となっている鉄だという。また利潤を求めて蝦夷側が馬や人を略奪する行為も起きていた。 官符によって禁制が出された直後の同年2月、佐伯葛城が陸奥介兼鎮守副将軍に任命されたが、赴任することもなく20日後には下野守に転じている。後任の陸奥介には藤原葛野麻呂、鎮守副将軍には池田真枚が就任している。 延暦6年閏5月5日(787年6月24日)、鎮守将軍百済俊哲が事に坐して日向権介に左遷された。
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