征夷大将軍との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 22:11 UTC 版)
鎌倉幕府時代、鎌倉殿と御家人との主従関係は私的なもので、公的に裏付けられたものではなかった。これは源頼朝が征夷大将軍に任命される前からの関係である。そのため、鎌倉殿は征夷大将軍の職位と厳密には等しくなく、征夷大将軍の地位そのものは鎌倉幕府の存立とは直接の関係はない。 一般的には、征夷大将軍の地位は「鎌倉殿」の地位を公的に担保するもの、と考えられている。実際、2代目の鎌倉殿となった源頼家が征夷大将軍職に就いたのは家督相続から3年後、源実朝の死後に鎌倉殿となった藤原頼経も征夷大将軍職に就いたのは鎌倉下向から7年後であって(鎌倉幕府公式記録『吾妻鏡』では実朝死去後から北条政子が6年間鎌倉殿だったとしている)、その間は征夷大将軍職が空位であったが、「鎌倉殿」であることは変わらず、特に問題とされなかった。 なお、「鎌倉殿」の地位を公的に担保するのは征夷大将軍ではなく、 日本国惣追捕使(にほんこくそうついぶし、惣追捕使(後の守護)の任免権を持つ) 日本国惣地頭(地頭の任免権を持つ) の二つの地位である、とする説もある(この二つの地位は、どちらも1185年に頼朝が得たもので、これらの地位は鎌倉殿に受け継がれる)。
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