征服されるギリシャ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/20 19:20 UTC 版)
「トルコクラティア」の記事における「征服されるギリシャ」の解説
コンスタンティノープルを占領したメフメト2世はエディルネから首都を移転した。1460年にはペロポネソス半島に残っていたパレオロゴス系のモレアス専制公領を占領、翌年にはコムネノス系のトレビゾンド帝国を征服、ビザンツ系の国家は全て消滅し、ビザンツ帝国の旧領のほとんどがオスマン帝国領となり、エイペロスの一部とラテン人(ヴェネツィア、ジェノバ)らが支配していた島嶼部及び、ペロポネソスの海岸部だけを残すだけになった。 ラテン人らはアナトリア西海岸、バルカン南部、西部の沿岸地域、エーゲ海と東地中海北側を主に占領していた。これに対してオスマン帝国は14世紀後半当初、海軍をほとんど保持していなかったため、陸地からの攻撃で征服を行っていたが、15世紀前半に入ってコンスタンティノープル占領以降、ゲリボルやイスタンブールと改名されたコンスタンティノープルにおいて造船所を設立、海軍力の増強に勤しんだ。 そして15世紀後半に入るとエーゲ海の島嶼部に進出、1462年、レスボス島を、1475年にはサモス島、1479年にはタソス、レムノス、プサラをジェノヴァ人らの支配下から奪った。そして1522年、スレイマン1世が聖ヨハネ騎士団が治めるロドス島とその周辺の島を攻略(ロドス島包囲戦 (en) )、オスマン帝国の東地中海進出の転換点となった。 その後、ヴェネツィアが治める島々も次々と攻略。1470年にはエウボイア島、1537年から翌年に掛けてスポラデス諸島、ミコノス島、カルパトス島を占領、それまでラテン人の海と言われたエーゲ海は「オスマンの海」と化した。 1545年以降、ヴェネツィアとオスマン帝国の間で戦いが勃発、1571年、キプロスをめぐってレパントの海戦が行われ、オスマン帝国海軍はキリスト教徒連合艦隊に敗れ去ったが、この戦いで敗北しても東地中海におけるオスマン帝国の優位は変わらず、キプロスはオスマン帝国の手中に落ち、さらには1579年にはキクラデス諸島、ナクソス公国がさらに陥落した。 17世紀に入ってもオスマン帝国による旧ビザンツ帝国領の征服活動は続き、1669年にはカルロヴィッツ条約が結ばれクレタ島の大部分がオスマン帝国に譲渡された。さらに、1715年にはコリントス、ナフプリオ、ナヴァリノ (en) 、コロン、モトンなどペロポネソス半島に残っていたヴェネツィア領も占領され、ここにイオニア諸島を除くギリシャ全土がオスマン帝国領となった。
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