中朝商民水陸貿易章程の締結
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「壬午軍乱」の記事における「中朝商民水陸貿易章程の締結」の解説
「中朝商民水陸貿易章程」も参照 1882年10月4日(朝鮮暦9月12日)、清国と朝鮮は天津において中朝商民水陸貿易章程を締結した。清国側は北洋大臣李鴻章のほか周馥と馬建忠が、朝鮮側は兵曹判書の趙寧夏と金宏集、魚允中がこれに署名した。この章程は両国間で締結された近代的形式を踏んだ条約としては最初のものであった。しかし、その内容は清の朝鮮に対する宗主権を明確にしたものであり、清による属国支配を実質化するものであった。 中朝商民水陸貿易章程は、両国が対等な立場で結んだ条約ではなく、清国皇帝が臣下である朝鮮国王に下賜する法令であるとされ、その前文において旧来の朝貢関係が不変であることを再確認し、この貿易章程が中国の属邦を特に「優待」するものであり、それぞれの国が等しく潤うものではないとされた。言い換えれば、これは宗属関係に由来する独自の規定であり、他の諸外国は最恵国待遇をもってしても、この貿易章程上の利益にあずかることができないとされたのである。清国は属国朝鮮に「恩恵」を施す存在であると明記されたが、清にのみ領事裁判権が与えられ、原告が中国人で被告が朝鮮人の場合には審理に清国商務委員がくわわることができるという不平等条項を含んでいた。また、第一条では清国の北洋大臣が朝鮮国王と同格であることが明確に規定された。 貿易章程では、朝鮮人が北京で倉庫業・運送業・問屋業を店舗営業できる代わりに、清国人は漢城や楊花津で同様の店舗経営ができるものとした。さらに、朝鮮内地で物資を仕入れ購入する権利もあたえられた。これらは諸外国が朝鮮とむすんだ通商条約にはない規定であり、したがって貿易章程における「属邦優待」とは、清国が朝鮮貿易上の特権を排他的に独占し、清国の内治通商支配を基礎づけるものであった。なお、のちに清国は1884年2月、同章程第4条を改訂して朝鮮の内地通商権をさらに広げている。 貿易章程の結ばれた1882年10月、天津滞在中の趙寧夏は軍乱後の政策について李鴻章の指導を仰ぎ、朝鮮政府が外交顧問として招聘すべき人材の推薦を依頼した。李鴻章が推薦したのはドイツ人のパウル・ゲオルク・フォン・メレンドルフ(穆麟徳、元天津・上海副領事)と馬建忠の兄馬建常(元神戸・大阪領事)であった。2人はこの年の12月に帰国した趙寧夏とともに漢城入りし、12月27日、高宗に謁見した。 また、朝鮮政府より軍隊養成と軍制改革を依頼された呉長慶は、当時頭角をあらわしつつあった若干23歳の野心家袁世凱に命じてこれを担当させた。朝鮮に派遣された袁は朝鮮の軍事権を掌握し、1年半後には彼のもとで養成された2,000名の新式陸軍が誕生した。 こうして経済面のみならず、軍事・外交の面でも清国は朝鮮への介入を強め、近代的な支配隷属関係への質的移行を示すようになった。
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