日本とコロンビアの関係
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日本とコロンビアの関係(スペイン語: Relaciones Colombia-Japón、英語: Japan–Colombia relations)では、日本とコロンビアの関係について概説する。
注釈
- ^ 世界銀行 Population, total - Colombia
- ^ 平成27年国勢調査人口速報集計 結果の概要 - 2016年2月26日
- ^ a b c コロンビア共和国(Republic of Colombia)基礎データ 外務省
- ^ 日本の統計2016 第1章~第29章 | 総務省統計局
- ^ 日本国憲法で明確に定められている。
- ^ 世界銀行 GDP (current US$) - Colombia
- ^ The World Bank GDP (current US$) - Japan
- ^ a b イネス・サンミゲル『黄金郷を求めて―日本人コロンビア移住史』神奈川大学出版会、2014年、81頁。
- ^ 寺澤辰麿『コロンビア商人がみた維新後の日本』(中央公論新社、2019年)
- ^ 寺澤辰麿『コロンビア商人がみた維新後の日本』中央公論新社、2019年、92頁。
- ^ 寺澤辰麿『コロンビア商人がみた維新後の日本』中央公論新社、2019年、169頁。
- ^ 寺澤辰麿『コロンビア商人がみた維新後の日本』中央公論新社、2019年、121頁。
- ^ 寺澤辰麿『コロンビア商人がみた維新後の日本』中央公論新社、2019年、122頁。
- ^ イネス・サンミゲル『黄金郷を求めて―日本人コロンビア移住史』(神奈川大学出版会、2014年)3、92、107頁
- ^ 寺澤辰麿『コロンビアの素顔』(かまくら春秋社、2016年)29-30頁
- ^ イネス・サンミゲル『黄金郷を求めて―日本人コロンビア移住史』(神奈川大学出版会、2014年)34-35頁
- ^ イネス・サンミゲル『黄金郷を求めて―日本人コロンビア移住史』神奈川大学出版会、2014年、27頁。
- ^ イネス・サンミゲル『黄金郷を求めて―日本人コロンビア移住史』神奈川大学出版会、2014年、36頁。
- ^ イネス・サンミゲル『黄金郷を求めて―日本人コロンビア移住史』神奈川大学出版会、2014年、72頁。
- ^ イネス・サンミゲル『黄金郷を求めて―日本人コロンビア移住史』神奈川大学出版会、2014年、82頁。
- ^ a b イネス・サンミゲル『黄金郷を求めて―日本人コロンビア移住史』神奈川大学出版会、2014年、83頁。
- ^ イネス・サンミゲル『黄金郷を求めて―日本人コロンビア移住史』神奈川大学出版会、2014年、48頁。
- ^ a b c d e イネス・サンミゲル『黄金郷を求めて―日本人コロンビア移住史』神奈川大学出版会、2014年、126頁。
- ^ イネス・サンミゲル『黄金郷を求めて―日本人コロンビア移住史』神奈川大学出版会、2014年、132頁。
- ^ イネス・サンミゲル『黄金郷を求めて―日本人コロンビア移住史』(神奈川大学出版会、2014年)35頁
- ^ イネス・サンミゲル『黄金郷を求めて―日本人コロンビア移住史』神奈川大学出版会、2014年、137頁。
- ^ 要人来日日程(平成11年)日・コロンビア関係
- ^ 要人来日日程(平成11年)
- ^ ウリベ・コロンビア大統領の訪日(概要と成果)
- ^ サントス・コロンビア大統領の訪日(概要)
- ^ 安倍総理のコロンビア訪問(概要)
- ^ 外務省情報文化局『外務省公表集(昭和四十二年下半期)』「七 儀典関係」「8 新任駐日コロンビア大使の信任状捧呈について」
- ^ 外務省情報文化局『外務省公表集(昭和四十七年)』「六、儀典関係」「31 新任駐日コロンビア大使の信任状捧呈について」
- ^ Luis González Barros, Embajador (b. - 1998) - Genealogy (スペイン語)
- ^ Foreign Representatives, Heads of Missions and Accompanying Persons at the Ceremony of the Enthronement of the Emperor at the Seiden | Diplomatic Bluebook 1991 (英語)
- ^ List of Official Mourners Representing Foreign Countries and International Organizations at the Funeral Ceremony of Emperor Showa | Diplomatic Bluebook 1989 (英語)
- ^ ご引見(平成3年) - 宮内庁
- ^ 信任状捧呈式(平成4年) - 宮内庁
- ^ 信任状捧呈式(平成8年) - 宮内庁
- ^ 信任状捧呈式(平成11年) - 宮内庁
- ^ 新任駐日コロンビア共和国大使の信任状捧呈について | 外務省
- ^ 駐日コロンビア大使の信任状捧呈 | 外務省
- ^ 駐日コロンビア大使の信任状捧呈 | 外務省
- ^ 当時、コロンビア国内は連邦主義者と中央集権派の保革対立から内戦状態が続いており、こうした政情不安が影響した可能性がある。
- ^ ニコラスは1830年、コロンビアのボゴタで生まれ、父親のディエゴ・ニコラス・タンコは1827年に当時のコロンビア蔵相を務めた。パリとニューヨークで教育を受け、1851年にコロンビアに帰国後、当時のホセ・イラリオ・ロペス政権を誹謗した廉で投獄された。出獄後、キューバに亡命し、製糖工場に勤務。1859年まで香港に在住し、1860年に帰国して中国旅行記を出版。1871年から三度目の東洋旅行に出発し、ニューヨークからサンフランシスコ経由で日本に入国。中国、ベトナム、シンガポール、セイロン(現在のスリランカ)、エジプト、イタリア、フランスを渡ってコロンビアに帰国後、1888年に日本旅行を中心とした『最近の旅行の想い出‐日本』を出版した。
- ^ イスキエルドは当時のコロンビア大統領ラファエル・レジェスから極東との交易の可能性について調査を命じられていた。川口の他に助手の庭師1人、大工1人を連れてコロンビアに帰国した。川口以外の氏名や消息は不明。
- ^ 川口は思う存分その才能を発揮して森を整え、博覧会は彼が配置した樹木や花壇の中で行われた。博覧会後、森は政府に収用され「独立記念公園」となり、公園の東側に隣接する市街地は「イスキエルドの森」と命名された。
- ^ イスキエルドの訪日後、コロンビアへの日本人移民の可能性について調査するため、日本政府から野田良治がコロンビアに派遣された。野田は帰国後、コロンビアへの日本人の移民は慎重になるべきと報告し、その理由として、日本とコロンビアの直通航路がないためコストが高くつくこと、コロンビア国内の交通には問題が多く、上陸後の日本人移民が移住地に移動することや他の場所に移ることも困難であること、険しい山岳地帯に占められた国土が大半で、農作物の種類も限られていること、等を挙げた。
- ^ パナマはコロンビアの一州に過ぎなかったが、コロンビアの内戦と政情不安に乗じて1903年に独立を宣言した。将来開通するパナマ運河の権益独占を狙っていた米国がパナマの独立運動を支援し、コロンビアに海兵隊を上陸させて圧力をかけた。
- ^ 1931年に国別の移民割当制度が実施された。ブルガリア、中国、ギリシャ、レバノン、リトアニア、パレスチナ、ポーランド、ルーマニア、ソ連、シリア、トルコ、ユーゴスラビアの移民希望者を5人または10人単位で受け入れるというものだったが、この割当制度は日本人には適用されなかった。1929年9月、横浜のコロンビア領事は本国政府から「黄色人種やソ連、シリア、ポーランド出身の移民希望者へのビザ発給を控えるよう」命じられた。
- ^ マシアスはコロンビア人ビジネスマンと日本の移民業務取扱会社の双方から「かなりの数の日本人をコロンビア太平洋沿岸に移住させる共同移民事業」の申請を受けたが、無視した。このことについて当時のコロンビア外相ホルヘ・ベレスに対し、「私は非常に忙しかったので時間内に必要な資料を申請者に提供できなかった。私はこの不可解な国の事はよくわからないが、コロンビアにとって日本人の移民は有益ではないことを貴下に伝えることが私の義務だと信じている」と釈明した。
- ^ レジェスは1849年、コロンビアのボヤカ県サンタロサ生まれ。アマゾンの熱帯雨林を探検し多くの川を発見した。コロンビアからキナ樹皮(マラリアの特効薬)をヨーロッパに輸出する会社を経営した後、軍役に就き1885年の内戦に参加。1895年の内戦に勝利し保守党の重鎮としてコロンビア大統領(在任1904-1909)を務めた。コロンビアからの独立を宣言したパナマの軍事的奪還に失敗し、1906年に暗殺未遂(首謀者は処刑)に遭い、1909年のクーデターで政権を追われ欧州に亡命。任期中にコロンビア経済を立て直すため中央銀行を創設し、酒とタバコの専売制、鉱業、繊維、製糖、製油、製紙など産業を振興し、バナナ、コーヒー、綿花の輸出に力を入れ対外債務を一掃するなどの功績を上げた。亡命後はスペインとフランスに住み、コロンビアに帰国後の1921年に死去。
- ^ レジェスが自ら日本に赴いて移民を募集した背景には、コロンビア農業者協会(SAC)から外務省と農務省に送られた嘆願書があった。この嘆願書では、鉄道敷設工事のために農業労働力が不足しており、その解決策としてSACが「日本人移民がコロンビアにとって最も適している」とコロンビア政府に提言し、日本に交渉団を派遣し、移民を募集するよう求めている。
- ^ 1910年代の終わり頃からコロンビアでは労働力不足が問題になり始めていた。コロンビアは広大な国土を保有するが開発のための十分な人口がなく、労働者不足から経済問題が解消されないことが悩みの種であった。1924年にはアトラト川下流の森林地帯開発のため10000人から16000人の契約労働者として日本人移民を受け入れる計画があった。また1925年には米国在住の25000人の日本人をコロンビア大西洋岸に移住させる計画があった。
- ^ 第一次世界大戦でイタリアは戦勝国だったが、イギリスやフランスのように賠償金を獲得できず、巨額の戦費が国家財政を圧迫し戦後は大不況に陥り大量の失業者が発生した。このためイタリアはコロンビアからコーヒー豆を輸入する見返りに国内の失業者を移民労働者としてコロンビアに派遣する計画があった。
- ^ 地元の新聞は警察の家宅捜査の成果として「ショットガン12丁、リボルバー拳銃3丁、護身用ピストル2丁が県警察の強制捜査により没収された」と報じた。コロンビアでは1955年まで個人の銃器所有が合法だった。
- ^ 米国はコロンビアがパナマを取り戻すために日本と協力するだけでなく、パナマ運河に代わる運河の建設計画を進めているのではないかと疑っていた。1905年10月21日付のコロンビアの新聞「エル・キュメリオ」に掲載された「太平洋沿岸地域の経済開発のためコロンビアに日本人移民を導入することのメリット」という記事が米国の警戒心を煽ったとみられる。
- ^ コロンビアがアマゾン地方のレティシアの領有権を巡り、ペルーと戦争になった1932年のコロンビア・ペルー戦争で、日本がペルーに軍事援助を行ったという噂話があり、そこからコロンビアにおける対日不安が増幅したとみられる。
- ^ 米軍情報部の1943年のレポートによれば、1938年6月、コロンビアの鉱山会社に雇用された4人の日本人技師がエクアドルから北側のすべての川を調査したという。また、日本陸軍か日本海軍所属の日本人地質学者が1939年、1940年、1941年にコロンビアに入国し、諜報活動の一環として地図を作成し写真撮影をしたとして告発された。米国諜報機関は、1940年から1941年にかけてコロンビアの大西洋岸を訪問した日本人の正体は「カカオの密輸ルートを利用して軍需物資を運搬しようとした工作員」であり、パナマとコロンビアの国境地帯に住む先住民クナ族からジャングルを抜けるための秘密の道路について調べていたと報告した。
- ^ 米国の諜報機関は情報員を日本人移住者の多いカウカ県などのコロンビア太平洋岸に何度も派遣し、日本人男性の個別面談を実施して個人情報を収集した。
- ^ 日本人移民は当初、陸稲を栽培したが失敗し、続いてソバ、綿花、ユカ芋、ジュート等の栽培を試みたがいずれもうまくいかず失敗した。最終的にうずら豆の栽培に成功し、農機具を導入して移住から8年後の1937年にはトラクター25台を所有。耕作面積も2倍半の227ヘクタールに拡大した。戦後の1950年には耕地面積が5000ヘクタールを突破し、1970年には大豆5000トンを日本に輸出した。
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