北樺太占領と救恤金
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 08:50 UTC 版)
白系ロシア人のグートマンは、日本の北樺太占領に領土欲を見て、「ロシア国民は侵略を受け入れることは決してない」と非難している。この北樺太占領に関しては、撤兵反対論者で、対外強硬論者といわれる五百木良三も、「サガレン(サハリン)占領のごときは大道商人のそれにも比すべき最もケチ臭い現金取引きで、あらずもがなのことだ」と反対し、『国辱記』で尼港事件を詳報した溝口白羊も、「人道の名を借りて侵略を行う連中といっしょにされることはお断りだ」とし、「尼港事件への寄付金には応じない富豪が、サガレンの漁業、林業、鉱業の利権獲得に夢中になっている」と批判する。 1922年に尼港事件被害者とオホーツク事件被害者のための露国政変及西比利亞事変ノ為損害ヲ被リタル者ノ救恤ニ関スル法律が施行され救恤金が支払われた。しかし、救恤金額が少ないことや申請が出来なかったものなどがいたため、尼港事件時に内地にいたため難を逃れることができた島田商会の島田元太郎は、東京に事務所を設け全国の被害者の中心となって再度の救恤金運動を行い続けた。 1925年、日本はソビエト・ロシアと国交を回復し、保障占領していた北樺太を返還した。しかしその交渉の過程で、尼港事件は政治的に棚上げされ、北樺太のオハ油田を中心とする石油長期利権 と引きかえに、賠償は求めないことになった。1925年12月には救恤金の再給付を求める請願書が島田元太郎等によって提出されたことなどから、日本政府は、「本来はソビエトの責任で日本政府が賠償を肩代わりする理由はない」としながらも、救恤金という形で、遺族を慰撫した。
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