北樺太油田利権の獲得
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/11 22:15 UTC 版)
「日ソ基本条約」も参照 1921年以来、日ソ両国は、日本軍の北樺太からの撤退とソ連政府の承認、尼港事件の解決に関して交渉を重ねたが、北樺太の資源利権も論点となっていた。 1922年9月に極東共和国との間で開催された長春会議が決裂した後、日露協会会頭を務め日ソ国交樹立を目指していた後藤新平東京市長は、加藤友三郎総理大臣の了解を得て、1923年2月にソ連駐華全権代表アドリフ・ヨッフェを病気療養の名目で日本へ招いた。そして、後藤とヨッフェが私的会談を行った後、6月末から7月にかけヨッフェと帰国中の駐ポーランド公使川上俊彦の間で非公式予備協議が行われた。本協議では北樺太全域の日本への売却も議論されたが、売却価格を日本は1億5千万円、ソ連は15億ルーブル(当時の15億円)とそれぞれ主張し折り合わなかった。しかし北樺太利権の供与はほぼ合意に至った。 続いて1924年5月から駐華公使芳澤謙吉とソ連代表レフ・カラハンとの間で北京会議が行われた。日本に認める油田権益比率について、日本が60パーセント、ソ連が40パーセントを主張し対立。日本海軍は同時に交渉していた北樺太西海岸の炭田権益を放棄しても油田権益60パーセントの確保を主張したが、50パーセントとする外務省案で妥協。ソ連はなおも45パーセントを主張したが、レーニン没後1周年(1925年1月25日)までに条約締結を目指す意向から日本案の50パーセントで妥結した。 ウィキソースに日ソ基本条約の原文があります。 1925年(大正14年)1月20日、日ソ基本条約を北京で締結。同条約第6条にソ連が日本に対し天然資源の開発に関する利権を供与する意向があることが明記され、条約の付属議定書(乙)で北樺太の油田利権内容を定めた。その概要は以下の通り。 日本軍の北樺太撤退後、5か月以内に利権契約を締結する(本文)。 北樺太油田の5割を開発する利権を日本政府が推薦する事業者(コンセッション会社)へ与える(第1項)。 利権契約締結後1年内に定める1,000平方ヴェルスタの地域において試掘期間は5-10年(第2項)、油田開発利権の期間は40-50年とする(第4項)。 同年6月、加藤高明総理大臣が国内の実業家100名を官邸に招き、北樺太油田利権のための会社設立に関する懇談会を開催。元海軍省軍需局長で燃料問題に係った経験を持つ中里重次海軍中将を利権交渉代表および新会社の社長に決定した。そして、利権交渉団は川上俊彦が顧問となり同年7月にモスクワへ向かった。正式会談24回、技術会議約20回、小委員会十数回を行い、途中交渉が難航し何度か決裂の危機があったものの、同年12月14日に日ソ基本条約付属議定書(乙)に定める「日本政府が推薦する事業者」として設立された北サガレン石油企業組合との間に石油利権契約(コンセッション契約)を締結した。そして北辰会は北サガレン石油企業組合に利権を譲渡し、1926年1月に解散した。 利権契約で定められた採掘期間は45年、試掘期間は11年であった。北辰会が試掘を行っていた、オハ、エハビ(ロシア語版)、ピリトゥン(ロシア語版)、ヌトウォ(ロシア語: Нутво)、チャイウォ、ヌイウォ(ロシア語: Ныйво)、ウイグレクトゥイ、カタングリ各鉱床の試掘・採掘権がコンセッション会社に供与されることとなった。鉱区は約500メートル四方の正方形のマス目に分割され、日ソの自国鉱区同士が隣接しないよう市松模様状に配分された。 1927年2月に追加協定を締結し、11ヶ所の試掘地域(北オハ(ロシア語: Северная Оха。50平方ヴェルスタ、以下単位同)、エハビ(100)、クイドゥイラニ(ロシア語: Кыдыланьи。50)、ポロマイ(ロシア語: Поромай。100)、北ボアタシン(25)、南ボアタシン(75)、チェルメニ・ダギ(200)、カタングリ(100)、メンゲ・コンギ(100)、チャクレ・ナンピ・チャムグ(100)、ヴェングリ・ボリシャヤフジ(100))の境界が定められた。
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