編成の経緯
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日本陸軍は、太平洋戦争以前から上陸作戦を重視して一定の研究を行っていたが、太平洋戦争が勃発するとますます専門部隊の必要性が高まり、その研究が強化されるようになった。1942年(昭和17年)頃には、揚陸艦の一種である機動艇30隻を持つ師団規模の海上機動兵団及び15隻を持つ海上機動旅団を創設する基本構想がまとまった。 その後、1943年(昭和18年)5月にアッツ島の戦いが発生し、日本軍は救援に失敗して守備隊を玉砕させてしまった。この事態に、敵軍の侵攻を受けた島嶼に上陸作戦により反撃部隊を送る「逆上陸作戦」の専門部隊としても、海上機動旅団の編成が急がれることになった。そして、同年11月16日の軍令陸甲第106号として海上機動旅団4個の編成が下令された。計画としては、さらに2個旅団編成されるはずだったと言われる。 なお、本来は上陸作戦部隊として編成されたにも関わらず、旅団として実際に敵前上陸作戦に参加することは一度も無かった。ただし、ビアク島の戦いにおいて海上機動第2旅団の投入が計画されたことがあったほか、旅団輸送隊のみが他部隊の指揮下で逆上陸作戦を実施したことがある。
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編成の経緯
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「騎兵連隊#大日本帝国陸軍」も参照 陸戦において機動力を生かしての偵察や伝令、襲撃、掃射任務などを担当する兵種としては、古くから騎兵が用いられており陸軍の花形であった。しかし、日露戦争や第一次世界大戦では機関銃が本格的に運用され、機動力や白兵戦における攻撃力に優れるも防御力に劣る乗馬騎兵の戦闘能力に疑問がもたれるようになった。また、自動車の発達が急速に進んだこともあり、列強各国では騎兵部隊の自動車化・機械化が研究されるようになった。 日本陸軍においても、従来は各師団に騎兵連隊や騎兵大隊を設置して偵察や伝令任務を負わせていたが、諸外国に倣いその機械化の研究を進めるようになった。その研究の成果として、1937年(昭和12年)と翌1938年(昭和13年)に新設された師団のうち7個の隷下に、捜索隊(一般用語との混同を避けるため「師団捜索隊」とも呼称された)が編成された。これは、騎兵連隊・騎兵大隊が持っていた2個乗馬中隊のうち、1個中隊だけを装甲車中隊としたものである(詳細後述)。「捜索連隊(連隊)」と称されなかったのは、仮に連隊番号(隊号)を所属する師団番号と同じにした場合、既存騎兵連隊の連隊番号と一部重複するので、混乱を回避するためとされる。 その後、上記7個の師団捜索隊に続き、太平洋戦争(大東亜戦争)開戦までの新設師団の多くには捜索連隊が編成された。さらに、既存の師団が持つ旧来の騎兵連隊の多くも、1940年(昭和15年)以降に順次捜索連隊へと改編された。その際、既存騎兵連隊の有していた軍旗(連隊旗)は奉還された。ただし、師団所属のすべての騎兵連隊が改編されたわけではなく、帝国陸軍の儀仗部隊として「鳳輦供奉」の任にあたっていた近衛師団の近衛騎兵連隊(「近衛騎兵連隊」とは別に「近衛捜索連隊」が編成されている)や、騎兵第3連隊・騎兵第6連隊などは終戦時まで騎兵連隊として残っていた。なお、近衛騎兵連隊をはじめとして、中には騎兵連隊の名称のままでありながら戦車中隊を追加された例なども多数あった。また、戦車師団が誕生するとその編制には通常師団のものより強力な師団捜索隊が加えられた。
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