編成までの経緯
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「2013 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表」の記事における「編成までの経緯」の解説
2010年 NPBは、第2回大会の監督についての選考が難航、長期化したことや、代表チーム編成が遅れたことの前回大会の反省点、また第3回大会に向けての監督の選考について、第2回大会当時のWBC体制検討会議メンバーであった王貞治らより、「大会の2、3年前には監督決定など準備に入るべきでは」との意見や巨人の滝鼻卓雄オーナー(当時)の「来年中には監督の選考システムを決めておいた方がいい。」との指摘を踏まえ、2013年に行われる予定の第3回大会での3連覇に向け、日本代表監督を2010年7月に決定する構想を持っていることが2009年12月31日に判明、2010年5月頃に「WBC体制検討会議」を発足させ、代表監督の選考作業を開始する見通しであることを発表。また代表監督決定に伴いにコーチ陣も決め、2011年及び2012年にNPBが独自に開催する国際大会を通じて日本代表の強化を図る計画であることも発表した(尚、「日本代表チームと国際大会にはそれぞれスポンサーをつけ、NPBの収入増も狙っている」とも報道された)。 2011年 2月10日 - 12球団代表者会議が行われ、広告代理店などから強化試合の構想が既に示されていることが報告され、正式な提案を早急に求めることで、12球団がほぼ一致した。 7月22日 - 日本プロ野球選手会は臨時大会を開き、参加条件が改善されなければ第3回大会に参加しないことを決めた。第2回大会の収益配分は大リーグ機構・選手会が66%だったのに対してNPBは13%しかなく、選手会は大会収入における日本代表の貢献度は大きいと主張。その後、8月10日に日本代表に係る収入の権利を日本野球機構に譲渡するよう交渉したが、主催者側は要求を拒否した上で日本不出場でも開催する意向を示し、出場可否の回答期限を9月30日まで定めた。 9月28日 - NPBと球団も、選手会同様に金銭面での不満から不出場の姿勢を取っていたが、出場可否の回答期限を過ぎても交渉出来るように求める文書を出すことを決め、12月のオーナー会議で出場するとの返答をすることとなった。 11月 - 侍ジャパン常設化が決定。 2012年 3月10日 - 代表常設後の初の試合として、2013年WBCの強化とは関係の無い、東日本大震災復興支援ベースボールマッチを行う。秋山幸二が監督として指揮を取ったが、この試合限定のものであった。 7月9日 - 2012年秋と2013年春に国際試合をすることが決まった。 7月20日 - 日本プロ野球選手会が2013年WBCの不参加を全会一致で決定。 8月28日 - WBC不参加の場合には、2015年のプレミア12への参加に照準を切り替えるとした。ただし、プレミア12への参加はWBCへの参加が前提条件とIBAFが発表している。 9月4日 - 日本プロ野球選手会は、WBCへ公平さを求め不参加を決めていたが、NPBがWBCのスポンサー料の代わりに代表ビジネスで4年で40億が確保出来ると選手会へ伝えると、WBCIから参加条件の見直しが無いにも関わらず、「MLB、WBCIとの関係において、選手会が要望してきたことが概ね実現していると判断できる状況が整ったこと」、「NPBとの関係において、NPBが確立した権利を最大限に活かすための体制作りを確約した事」、以上を理由にWBC不出場決議の撤回をNPBに通知、WBCに参加することが正式に決定した。 10月10日 - 日本代表「侍ジャパン」監督コーチ就任会見が行われ、監督に山本浩二の就任が発表された。また、コーチ陣には、元西武ライオンズ監督の東尾修、元日本ハム監督の梨田昌孝、与田剛、立浪和義、高代延博、緒方耕一の就任も発表された。11月16日の福岡ドームで行われる、国際親善試合キューバ戦より指揮を執る。親善試合である11月のキューバ戦では山本監督の選考ではなく、12球団の監督によるアンケート結果から代表選手を選出することとなった。 11月14日 - アサヒビールが2013年9月30日までの、約1年契約でスポンサーとなることとなった。 11月15日 - テレビ朝日とTBSがWBCの放映権を獲得したことを発表。 11月16日・18日 - 侍ジャパンマッチ2012「日本代表 VS キューバ代表」が行われる。試合は16日が2-0、18日は3-1でともに日本代表が勝利した。 11月19日 - かねてよりWBCへの出場要請をしていたMLB所属のダルビッシュ有、岩隈久志、青木宣親、川﨑宗則、イチロー、黒田博樹の6選手全員から出場を辞退されることとなり、山本監督はNPB所属選手のみで大会に出場することをコメントした。 12月4日 - 代表候補34人を発表。 2013年 1月7日 - 吉見一起が「昨年痛めた右肘の不安が完全には消えない」ことを理由に、日本代表を辞退。 2月15日 - 日本代表合宿がサンマリンスタジアム宮崎で開始。 2月18日 - 代表候補33人から28人に絞り込む予定であったが、強化試合中止に伴い、20日に延期。 2月20日 - 日本代表メンバー28人が発表された。浅尾拓也、山井大介(以上投手)、村田修一(内野手)、大島洋平、聖澤諒(以上外野手)が代表落ちとなった。 2月21日 - 日本代表合宿が終了。
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「ウラジーミル・ペニアコフ」も参照 ウラジーミル・ペニアコフは、1897年のベルギーにてロシア系ユダヤ人の両親のもとに生まれた。ベルギーで初等教育を終えた後、イギリス・ケンブリッジ大学セント・ジョンズ・カレッジ(英語版)に進学したが、そこでバートランド・ラッセルに影響され熱狂的なイギリスの支持者となった。1918年、第一次世界大戦の勃発を受けてフランス軍の砲兵として招集されたが、わずか12ヶ月後には傷病兵として送還された。 戦後、ペニアコフはグルノーブルにて機械技師の資格を取得する。彼は父親の化学工場で働いていたが、1924年にはエジプトに移り砂糖精製所を創業した。その後の15年間、彼はアルプス山脈に登ったり、軽飛行機の操縦資格を得て中東方面を飛行するなど様々に余暇を満喫した。また砂漠の探検にも乗り出し、多くのアラブ部族と出会い、その歴史や地理について学んだという。その後、王立地理学会の研究員となった後、結婚して2人の娘をもうけた。 第二次世界大戦が勃発した時、ペニアコフはイギリス空軍およびイギリス海軍に志願しているが拒否されている。イギリス陸軍もまた消極的だったものの、この「中年で太り気味で頑固な中年のベルギー人」からの強い志願に折れる形で彼を採用した。その後、彼はリビア・アラブ軍(Libyan Arab Force, LAF)に駐屯地付アラビア語通訳官として派遣されたもののこの職に満足せず、リビア・アラブ軍コマンド(Libyan Arab Force Commando, LAFC)なる部隊をほぼ独断で設立した。LAFCはイギリス人およびリビア人の将兵によって構成され、キレナイカのアフダル山地を中心に活動した。 1942年半ば、留守中にLAFCが解散された事を知ったペニアコフはカイロに戻ったが、LAFCの作戦を引き継いだLRDGから襲撃作戦への参加を打診された。LRDG隊員として従軍中、イタリア軍からの狙撃を受けて左手の小指を失うが、MCを受章している。その後、彼はポプスキー私兵団の編成に着手したのである。総兵力は士官・兵下士官あわせてわずか23名で、当時の英陸軍の独立部隊のうち最も小規模だった。創設時の将校はペニアコフ、ロバート・パーク・ヤニー(Robert Park Yunnie)、ジーン・カネリー(Jean Caneri)の3名のみで、彼らはLAF勤務時に知り合った友人同士だった。
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