アメリカ陸軍航空部
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1917年、ホノルルに第6飛行隊(英語版)が設立され、司令官としてジョン・F. カーリー大尉が任官した。50機が所属することとなったが、49機しか到着せず、1機は途上で放棄された。カーリーは新たな部隊の基地として、水の入手と風の状況の良さからフォード島を選び、ジョン・パパ・イイ土地信託団体から236,000ドルで用地を買い取った。カーリーがワシントン州に移動となり、隊の指揮権はまずジョン・B・ブルックに移り、その後ヒュー・J・ナー(英語版)少佐が着任して、彼が格納庫と滑走路を整備した。最初に配属した兵士たちは、丘を削り巨石を取り除き、地面を水平に整備しなければならなかった。 全ての隊舎と主要格納庫は1918年に完成した。格納庫の1つは鋼鉄と木材で造られた大型のもので、水上機と飛行艇用に2つのコンクリート製格納庫が作られ、他に倉庫や工場、現像室、発電所が建設された。1919年、基地は第1次世界大戦のエース・パイロットで名誉勲章を授与された英雄であるフランク・ルークにあやかって、ルーク・フィールドと命名された。アメリカ陸軍によるフォード島への飛行場の設置は、ハワイの至るところで民間空港の建設ラッシュを引き起こし、全米飛行家協会(英語版)のハワイ支部の設立と全米空港コードの割り当てが行われた。陸軍航空部隊の存在は、ハワイ人に通常は好意的に受け入れられた。軍の派遣が彼らの土地に対する敬意の表れと受け止められたためだ。 ルーク・フィールドに配属されたアメリカ陸軍の航空機年Unit航空機1919–1942 第2監視群、後の第5監視群(英語版) — 1918–1927 第6飛行隊(英語版)、後の第6戦闘飛行隊 N-9、R-6、HS2L(英語版)、DH-4(英語版)、JN-4(英語版)、MB-3(英語版)、フォッカー D.VII 1924–1927 第19戦闘飛行隊(英語版) JN-6(英語版)、MB-3(英語版)、S.E.5、DH-4(英語版) 1920–1922, 1927–1939 第4飛行隊(英語版)、後の第4監視飛行隊 DH-4(英語版)、O-19(英語版)、OA-1(英語版)、B-12、 P-12 1922–1939 第23飛行隊(英語版)、後の第23爆撃飛行隊 NBS-1(英語版)、JN-6(英語版)、DH-4(英語版) 1923–1939 第72爆撃飛行隊(英語版) DH-4(英語版)、NBS-1(英語版)、LB-5(英語版) 1930–1939 第50監視飛行隊(英語版)、後の第50偵察飛行隊 O-19(英語版) アメリカ海軍は、ハワイに基地が必要と結論を下し、フォード島の陸軍基地を候補と見定めた。 真珠湾海軍航空基地に配属する士官9名と兵員55名が、1919年12月19日に任命される。海軍は陸軍から島を接収し独占を試みたが、ニュートン・ディール・ベイカー陸軍長官はそれを認めず、両軍が島を分け合うことになり、陸軍は島の西側、海軍は南東部に陣取った ロバート・D・カーク=パトリック少佐(海軍少佐 (欧米)、英語版)が島内に海軍基地を設立するために、4機の航空機と55名の兵員を揮下に派遣された。 カーク=パトリックの部下は、第1次世界大戦で使用され廃棄予定だった2機のカーチス HS2L(英語版)飛行艇と2機のカーチスN-9を受け入れ、島の対岸に建設された2棟の巨大なキャンバス地の格納庫に収容した。 ジョン・ロジャーズ少佐が後任として着任した後、分遣隊が島へ移動し、海軍航空工廠TS(英語版)やフェリックスストウ F5L(英語版)、カーチス H-16(英語版)、キーストーン PK-1(英語版)、ダグラス DTを受領した。 軍艦を係留するために石材とコンクリートで、島中に岸壁を建設し、1926年には、ヴォートFU(英語版)とヴォートVE-7(英語版)、ヴォート VE-9(英語版)複葉機が配属された。 1930年代、海軍は真珠湾内に戦艦や空母を入港させるため、1千5百万ドルを拠出して湾底の浚渫を決意した。 工事は1940年5月に始まり、外洋からフォード島までの水路と島を一周する水路を確保するため、990万立方メートルの土砂が浚渫された。 更に、戦艦を停泊させるために、ウェスト・ロックやイースト・ロック、ミドル・ロックも浚渫している。浚渫された土砂は埋立に利用され、島の面積は135ヘクタールから178ヘクタールにまで拡張した。 海軍はPK-1やF5L、H-16といった航空機を新型機に交換した(以下の表を参照)。1933年には第8F哨戒中隊が到着し、1935年には、陸軍の爆撃機が大型化し、ルーク・フィールドでは保守や駐機が困難となった。陸軍は新たな飛行場の建設を開始し、アメリカ陸軍航空隊創設期のパイロット、ホレース・ミーク・ヒッカム(英語版)中佐の名を冠し、ヒッカム陸軍飛行場と命名した。 1936年から1940年の間、パンナムが合衆国とアジアを結ぶ長距離国際線を運行し、給油のためにフォード島を利用した。海軍は2万5千ドルで艇庫を建設し、さらに57万9565ドル掛けて、新たな隊舎、消防、給水、照明施設を整備した。1936年6月には、島の着陸場を120メートルから900メートルに延長している。1937年5月、ルーク・フィールドにアメリア・エアハートがロッキード・エレクトラで再到来し、未還に終わった世界一周飛行に飛び立っていった。 1931年当時の真珠湾海軍航空基地の海軍機部隊航空機第1哨戒中隊 T2D(英語版)6機 第4哨戒中隊(英語版) PC-1(英語版)12機 第6哨戒中隊(英語版) T4M-1(英語版)6機T3M-2(英語版)6機 第6偵察中隊 OA-8(英語版)2機O2U(英語版)1機 1939年、3年に渡る工事ののち、ヒッカム飛行場が開設した。陸軍はすべての運用をこちらへ移し、ルーク・フィールドは海軍に引き渡された。引き渡し後はフォード島海軍航空基地と改名され、第2哨戒航空団(英語版)の司令部となった。その後、旧名はアリゾナに設立された新たな基地、ルーク空軍基地(英語版)に引き継がれることになる。1939年9月8日、大統領による緊急声明により、島はさらなる軍事行動に備えるために新たな施設建設に拍車がかかった。これにより兵舎、組立補修用格納庫、本部棟、管制塔が整備され、さらに洗濯場や劇場まで建てられた。第二次世界大戦の絶頂期には、4万人の人員が島内で生活し働いていた。
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