帷幕の将
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/06 14:00 UTC 版)
「フォレスト・シャーマン」の記事における「帷幕の将」の解説
キングは海軍航空畑生え抜きの航空局長ジョン・ヘンリー・タワーズ少将(アナポリス1906年組)を、1942年10月に真珠湾に創設した太平洋航空部隊司令官(中将)とした。タワーズはキングを嫌っていたが、キングの側は必ずしもそうではなかった。キングはタワーズに海上で指揮を執らせるようニミッツに再三提案したが、タワーズを嫌う太平洋艦隊司令長官兼太平洋戦域最高司令官(Commander in Chief, United States Pacific Fleet and Commander in Chief, Pacific Ocean Areas. 略称CINCPAC-CINCPOA)チェスター・ニミッツ大将(アナポリス1905年組)は、これを認めなかった。キングは1944年1月にタワーズを太平洋艦隊副司令長官兼太平洋戦域副司令官(Deputy Commander in Chief, United States Pacific Fleet and Deputy Commander in Chief, Pacific Ocean Areas. 略称DCINCPAC-DCINCPOA)に昇格させている。しかしニミッツは1945年1月に司令部をグアム島に前進させた際、タワーズを真珠湾に残して後方部門に専念させた。タワーズはニミッツの措置に大いに抗議した。 そのタワーズが自分の参謀長として選んだのが、待命中のシャーマンだった。シャーマンとタワーズの間柄は浅くなく、第1戦闘群航海参謀時代の上官だったヤーネルの参謀長がタワーズだった。シャーマンは参謀長とはいえ、前述のように後方部門担当の部隊ゆえに、事あるごとに衝突を繰り返すニミッツとタワーズの間に入る仲裁役が主な仕事となった。仲裁役を何度か務めているうちに、シャーマンはニミッツにも気に入られるようになる。1943年に入り、中部太平洋方面への作戦がおぼろげながらにも検討され始めると、シャーマンもこれに応えていくつかの作戦を立案するようになる。6月に中部太平洋方面に攻勢をかけることが確認されると、まずマーシャル諸島の攻略が検討され始めるが、この方面の日本軍は強力で、後詰も大いに期待できることが考えられた。また、マーシャル諸島は味方の基地からは遠く、攻略のための事前偵察も十分行えなかった。シャーマンはそのための基地としてウェーク島の奪還を進言したが、当時ニミッツの参謀長で、間もなく第5艦隊司令長官となったレイモンド・スプルーアンス中将(アナポリス1907年組)は、この提案を採用しなかった。最終的には、まずギルバート諸島をリハーサル的に攻略し、その経験などを活用してマーシャル諸島攻略に取り掛かるというスプルーアンスの提案が紆余曲折の末に採用された。 1943年11月、シャーマンはCINCPAC-CINCPOA司令部作戦参謀に転じ少将に昇進する。ギルバート諸島攻略のガルヴァニック作戦が終了し、マーシャル諸島攻略に本腰を入れることになったが、ここでニミッツが「クェゼリン環礁を第一の目標にする」と暗に言い出す。実は、クェゼリン環礁攻略を立案したのがシャーマンで、シャーマンの提案をニミッツが採ったというものだった。「クェゼリン環礁を真っ先に攻略しても、周囲の日本軍からの反撃がある」と考えて反対していたスプルーアンスは驚き、同じように反対していたターナーとホーランド・スミス海兵少将を誘って攻略計画の撤回を求める策に出る。ターナー、スミス、スプルーアンスの参謀長チャールズ・J・ムーア(カール・ムーア)少将(アナポリス1910年組)はスプルーアンスの部屋にシャーマンを呼び出し、計画の撤回をニミッツに求めるようシャーマンに圧力を加えた。シャーマンはこれに対し持論を曲げず、逆に日本軍航空戦力を過大評価していると反論して論争は終わった。最終的な結論は、ニミッツが更迭カードをちらつかせて押し切ったが、取引である程度は妥協してマジュロ攻略を含む代替案を了承した。シャーマンはのちにムーアに対し、圧力をかけられたことに関して不愉快だったと述べた。 攻略地に関する論争は終わったが、間もなく違う問題が発生した。第5艦隊の指揮下にある第50任務部隊は空母を主体としており、チャールズ・A・パウナル少将(アナポリス1910年組)が8月以来、指揮を執っていた。南鳥島、ウェーク島、ギルバート諸島と連続して空襲作戦を行い、ガルヴァニック作戦や12月のクェゼリン攻撃で多少の損害があったものの作戦は概ね成功していた。ところが、クェゼリン攻撃のあとにパウナルは司令官から更迭される。そもそもの始まりは「南鳥島攻撃では反撃の恐れがなかったにもかかわらず、パイロット救助任務を潜水艦に丸投げして即座に避退した」とか、「タラワ攻撃では、再攻撃すべきとの進言を退けて避退した」とか、挙句の果てには「機動部隊を率いる事を後悔した発言をした」などという話が上層部に「ご注進」されていたが、その「ご注進」先の一つがタワーズだった。「ご注進」を受け取ったタワーズは、ニミッツに対してパウナルの更迭を進言する。シャーマンはニミッツ、タワーズ、自分の上司でCINCPAC-CINCPOA司令部参謀長チャールズ・マクモリス少将(アナポリス1912年組)とともにパウナル更迭の協議に参加。会議の結果、スプルーアンスに何も知らせずパウナル更迭を決定する。更迭を決定したとなれば、その後任を決めなければならない。タワーズやジョン・S・マケイン・シニア少将(アナポリス1906年組)、マーク・ミッチャー少将(アナポリス1910年組)、テッド・シャーマンらが候補に挙げられたが、最終的にはタワーズの意見もあってミッチャーに決まった。当時スプルーアンスは、ミッドウェー海戦におけるミッチャーの空母ホーネットの指揮ぶりからミッチャーに不信感を抱いており、この決定に怒りを見せ、テッド・シャーマンも不満を隠さなかったが、ともかくクェゼリン攻略は新しい顔ぶれで行われることとなった。 一連のマーシャル諸島での作戦が始まろうとしていた1944年1月27日から28日にかけて、真珠湾でCINCPAC-CINCPOA司令部幹部とウィリアム・ハルゼー大将(アナポリス1904年組)の第3艦隊の幕僚にダグラス・マッカーサー陸軍大将の南西太平洋軍の幕僚を加えて次期作戦に関する会合が持たれた。出席者はCINCPAC-CINCPOA司令部からはシャーマンとマクモリス、第3艦隊からはロバート・カーニー少将(アナポリス1916年組)、南西太平洋軍からは参謀長リチャード・サザランド陸軍少将と航空司令官ジョージ・ケニー(英語版)陸軍少将、第7艦隊司令長官トーマス・C・キンケイド中将(アナポリス1908年組)といった顔ぶれで、会合ではマッカーサーがこだわった南西方面からの反撃に対する賛同が多く、マリアナ諸島に関してシャーマンは「マリアナ攻略は大きな犠牲が考えられ、得るところはあまり役にはたたない港だけ」と発言する。ケニーとマクモリスにいたっては、新型爆撃機でマリアナから日本を攻撃することに懐疑的だった。会合がまとまると、シャーマンはニミッツの命で議事録をワシントンの統合参謀本部に持っていったが、議事録を読んだキングは、マッカーサーの構想を丸呑みにした会合の内容に激怒し、ニミッツを叱責した。キングはニミッツやマーシャルにマリアナ攻略の重要性を説くとともに、シャーマンやサザランドを呼び出して作戦の検討をしなければならなかった。 1944年3月、シャーマンはCINCPAC-CINCPOA司令部参謀副長(兼作戦参謀)に昇格。間もなくニミッツとともにワシントンに呼び出される。マッカーサーもこの時統合参謀長会議に呼び出されていたが、戦線を優先して欠席していた。マッカーサー欠席とヘンリー・アーノルド陸軍大将のマリアナ攻略案賛成ということも手伝って、南西方面と中部太平洋方面からの二方面作戦が再確認されることとなった。これ以降、シャーマンはニミッツの意を受けて、しばしばワシントンの合衆国艦隊司令部に詰めることとなった。また、5月にサンフランシスコで開かれたキング、ニミッツ、ハルゼーのマリアナ攻略戦後に関する三者会談、9月29日に同じくサンフランシスコで開かれた、台湾攻略の可否を問うキングとニミッツの会談にも帯同。ニミッツ、ハルゼー、スプルーアンスといった提督の活躍はシャーマンなど「裏方」の働きによるところも大きく、マーシャル諸島以降の戦いの計画には、すべてシャーマンが関わっていたという。1945年8月15日に日本はついに降伏した。シャーマンも9月2日の戦艦ミズーリ (USS Missouri, BB-63) 艦上での降伏文書調印式にも立ち会った。
※この「帷幕の将」の解説は、「フォレスト・シャーマン」の解説の一部です。
「帷幕の将」を含む「フォレスト・シャーマン」の記事については、「フォレスト・シャーマン」の概要を参照ください。
- 帷幕の将のページへのリンク