航空局長
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/12/29 16:07 UTC 版)
「ジョン・ヘンリー・タワーズ」の記事における「航空局長」の解説
タワーズはキングとの航空局長争いについて知人に対し「海軍の古い連中はモフェットの死を大いに利用した」などと愚痴ったが、やがてプラットの次の作戦部長であるウィリアム・スタンドレイ(英語版)大将(アナポリス1895年組)に「次がある」と慰められ、スタンドレイやアパムの次の航海局長ウィリアム・リーヒ少将(アナポリス1897年組)の勧めで海軍大学校(英語版)上級課程を受講する。海軍大学校卒業後はサンディエゴの海軍航空基地司令を経て、1936年6月には航空艦隊司令官フレデリック・J・ホーン(英語版)中将(アナポリス1899年組)の参謀長に復帰。1年後の1937年6月には「サラトガ」の艦長の職を、前任者のウィリアム・ハルゼー大佐(アナポリス1904年組)から引き継いだ。1938年1月に航空艦隊司令官がホーンからキングに代わると、タワーズとキングのいさかいが今度は「サラトガ」艦内で再発し、1938年7月にタワーズが航空局次長に再任されて「サラトガ」を去るまで続く。そして1939年6月1日、タワーズは少将に昇進して航空局長に就任する。 タワーズは航空局長としてまず、海軍の航空機調達計画を策定させる。タワーズの計画指導の下、海軍の保有機数は1939年の時点では約2,000機だったものが、1942年には39,000機にまで増大した。また、規則正しいパイロット育成プログラムを打ちたて、後方担当のパイロット資格を持つ予備役がその育成にあたることとされた。人材の確保も、タワーズの局長在任中におよそ100万名を数え、そのうちの4分の3が高いレベルを保ったと評価された。1939年9月1日の第二次世界大戦勃発を経て、翌1940年8月22日、海軍長官の下に新たに航空担当次官が設けられ、ジェームズ・フォレスタルが就任する。もっとも、自身もかつてはパイロットだったフォレスタルは、航空に関する事項のほとんどをタワーズに一任させた。新しい後援者を得たタワーズはこうして海軍航空隊の規模拡大を推し進めたが、一方で新たな軋轢と遺恨を生み出すことにもなった。 モフェット以来、航空局では人材育成の理想像として「アナポリス卒業後はすぐにペンサコーラ(飛行学校)入りさせ、卒業後は航空関連のポジションに就かせるべきだ」という考えを持っていた。パイロットは水上艦乗員とは「育て方」が違うから、というのが理屈であったが、人事担当の航海局としては人員を根こそぎ航空に持っていかれたり、訓練を別扱いするわけにもいかなかった。当時の航海局長はチェスター・ニミッツ少将(アナポリス1905年組)であったが、しばしばタワーズのメディアや議員を使った攻撃に悩まされており、タワーズを敬遠するようになっていった。また、キングとの軋轢と遺恨も再燃する。航空を含めた海軍行政部門は海軍省の仕事であって海軍作戦部の仕事ではなかったが、大将昇進を経て、真珠湾攻撃によるアメリカ参戦後に合衆国艦隊司令長官兼作戦部長となっていたキングはこれが気に入らなかった。キングはルーズベルトに、海軍作戦部に行政部門への指揮権限を与えるよう要請したが、法律上の問題があって実現しなかった。しかし、代わりに「キングに非協力的な局長は更迭する」という言質をもらった。キングは、今まで以上にフォレスタルを初めとする政治家連中と親しくしているタワーズを、理由をつけてワシントンから放り出すことを画策する。
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