南西海域での輸送作戦、沈没
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/16 03:40 UTC 版)
「岸波 (駆逐艦)」の記事における「南西海域での輸送作戦、沈没」の解説
レイテ沖海戦から帰投中、第31駆逐隊は第二遊撃部隊(指揮官志摩清英中将、第五艦隊司令長官)に所属変更となった。29日午前1時、岸波含め駆逐艦5隻はブルネイ湾に帰投し、先行していた第一遊撃部隊主力と合同した。同日午前、妙高と長波はコロン湾に到着した。妙高は翌日ブルネイを出発、岸波と第34号掃海艇は妙高の護衛を命じられていた。11月3日、妙高はシンガポールに到着した。 11月11日、第三次多号作戦に従事中の長波が沈没する。13日にマニラ湾は米軍機動部隊艦載機による大規模な空襲を受け、日本軍は大損害をうける。夕雲型では沖波と秋霜が大破着底した。15日、海軍は艦隊の再編を実施、第31駆逐隊から朝霜が転出し、かわりに浜波が編入された。だが浜波はすでに第三次多号作戦で沈没しており、健在の第31駆逐隊は岸波1隻だった。 11月22日の時点で、岸波は第二遊撃部隊各艦と共にリンガ泊地にいた。26日、岸波は敷設艇由利島、第17号海防艦と共に海軍配当船八紘丸を護衛してシンガポールを出港した。12月1日夜、マニラ到着。荷揚げ後、船団は3日にマニラを出発、シンガポールへ帰路についた。だが船団は米潜水艦ホークビルに通報され、米潜水艦フラッシャーが船団の前方で待ち伏せした。 12月4日午前10時30分、フラッシャーはパラワン島北西沖で船団を発見し、魚雷4本を発射した。魚雷1本が岸波の前部機関室右舷(第二魚雷発射管の下部)に命中し、航行不能となった。続いてフラッシャーは八紘丸に魚雷4本を発射、2本が命中し八紘丸も航行不能になった。僚艦が岸波を曳航しようとしたが、午後2時2分、再度の魚雷攻撃をうける。魚雷2本が岸波に命中した。命中箇所は、第一缶室(艦橋後部付近)と、先に被雷した前部機械室付近。岸波は左舷に傾斜したあと、被雷部分で船体が折れて沈没した。第二水雷戦隊の記録によると、沈没海域は北緯13度12分 東経116度39分 / 北緯13.200度 東経116.650度 / 13.200; 116.650。三舩艦長ら90名が戦死する。戦死者の中には、南雲忠一海軍大将の長男、南雲進少尉(海兵73期)も含まれていた。生存者は150名であったという。フラッシャーはさらに八紘丸に魚雷を命中させ、八紘丸は沈没した。 1945年(昭和20年)1月10日、岸波は帝国駆逐艦籍から除籍され、稼働艦がなくなった第31駆逐隊も解隊された。
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