空母「瑞鶴」
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1940年4月連合艦隊第1艦隊所属第1航空戦隊、「龍驤」で艦隊訓練を開始、予備艦になって整備中だった「龍驤」を使っての母艦訓練に参加した。訓練内容は、離艦・着艦、母艦へ夜間着艦訓練、編隊空戦の連携訓練、洋上航法、夜間航法、無線兵器の電信での母艦との通信連絡および電波航法(フェアチャイルド社製クルシー方位探知機での)による帰投などであった。 詳細は「第一航空艦隊」を参照 1941年(昭和16年)4月第1航空艦隊(1航艦)創設にともない、岩本たちは前年度からの母艦「龍驤」での訓練で選抜された中堅搭乗員として、第1航空艦隊所属の第3航空戦隊である「瑞鳳」戦闘機隊に配属。1941年5月1日海軍一等航空兵曹(6月1日海軍一等飛行兵曹に改称)。1941年秋、最新型の高速大型空母「翔鶴」、「瑞鶴」が就役し、第5航空戦隊が創設された。10月4日、3航戦の岩本たち瑞鳳戦闘機隊隊員たちは第5航戦に編入し、二手に分かれて「瑞鶴」および「翔鶴」に着任した。一航艦は日米開戦の劈頭に行う真珠湾攻撃のために極秘で準備されていたが、岩本たち下級搭乗員は知らされないまま、九州各基地に搭乗機種、艦ごとに集合して、当時世界3大海軍国の米国、英国を飛行技量でしのぐ最高の艦隊搭乗員実力を目指して連日、日夜激しい訓練がつづけられていた。岩本の回想録には、以後の太平洋戦線での様々な実戦局面で、幸運や勘ではなく、この時期に艦隊戦闘機隊訓練で体得した技術を洋上、夜間の飛行操縦術へ科学的に応用活用し、確率を上げて生き抜いた描写が記述されている。 1941年12月太平洋戦争開戦。劈頭の真珠湾奇襲作戦に参加。第一航空艦隊所属の航空母艦「瑞鶴」戦闘機隊員で、真珠湾攻撃時は艦隊の上空直衛任務に就き戦果はなかった。1941年12月24日感状授与。 1942年4月インド洋作戦で4月5日機動部隊に接触してきたコンソリーデーテッドPBY飛行艇を撃墜し、太平洋戦争における岩本の初撃墜の戦果を得た。 詳細は「珊瑚海海戦」を参照 1942年5月MO作戦のため、5航戦は一航艦から第4艦隊指揮下に入り、珊瑚海海戦に「瑞鶴」上空直掩で参加。1942年5月8日、瑞鶴の岩本の瑞鶴直衛隊の戦闘機3機と翔鶴隊3機は上空警戒に上がっていたものの、残りの13機は事前に偵察機から「敵三十機味方主力方向に向かう」との報告を受けながら至近距離までせまってから緊急発艦であり、艦隊の邀撃体勢は後手となった。先行して上がっていた岩本小隊3機は、高度7500メートルで、30キロメートル先の米攻撃隊を発見し、優位の高度からウォーレス・C・ショート大尉率いる17機に攻撃をかけて米軍急降下爆撃機を攻撃して投弾を妨害した。ショート大尉は「急降下前、急降下中、引き起こし後、いたるところで零戦の妨害にあった」と報告している。この攻撃で低空に下がった岩本小隊は、上昇中に瑞鶴後方で味方戦闘機を攻撃中の米F4F戦闘機隊を発見し、これに対して攻撃を加え岩本は1機を撃墜した。岩本隊はこの戦闘後、敵の攻撃を避けるためスコールへ退避中で激しくゆれる瑞鶴に着艦し補給を行った。 米軍の第二次攻撃迎撃の為に他の小隊と共に発艦し、岩本隊他は概ね高度6500メートルまで上昇の後、母艦から4.50キロメートルの海域で、高度5000メートルを飛行中のレキシントンからのF4F戦闘機に護衛されたSBD爆撃機を捕捉した。このうち岩本らは空母護衛の日本軍巡洋艦に向かった急降下爆撃機に攻撃を加えた。岩本は追撃に熱中する列機に対し中止を命じ、後続する筈の敵雷撃機の攻撃を予想して、スコールの雨雲の上の指揮官機に集まるよう信号を送り、1,2中隊12機で上空哨戒についた。瑞鶴がスコールに退避して無事を確認したが、翔鶴は航行に支障はなかったが爆撃で飛行機の発着が不能となったことに岩本は気がついた。予想通りTBDデバステーターが現れ、岩本は空母10km先で気づき7kmの地点でTBD雷撃機を攻撃した。TBD機は遠距離から魚雷を投下したため両空母に被害はなかった。岩本は後にこの雷撃機に対して「日本機なら攻撃されても射点での攻撃を敢行しただろう」と回想している。追撃のチャンスだったが高度4000メートルで哨戒、10分後に味方戦闘機を高位より攻撃準備中の敵F4F戦闘機を発見し救援援護した。瑞鶴は相変わらずスコールに隠れていたが、翔鶴は集中攻撃を受けレキシントン隊オールト中佐のSBD4機が放った500ポンド爆弾の1発が艦橋後方に命中した。第二次攻撃隊が去ったと判断した岩本は、今はスコールの外を航行中の瑞鶴に燃料と弾薬の補給の許可を求めたが容れられず、暫く高度5000mで直衛哨戒を続けたが燃料切れ間近となったので母艦に着艦要請を出し翔鶴隊と共に着艦。岩本は補給後に指揮官として7機を指揮し上空直衛に上った。しばらく後に、米空母を攻撃した日本軍機が帰還し、翔鶴が着艦不能なために全て瑞鶴に収容されたが、その後も1時間ほど直衛についた。 珊瑚海海戦は目的を達成できず撤退するが、母艦瑞鶴と岩本らの直衛隊は1名の戦死もなく無傷であったが、攻撃隊の多くの搭乗員を失った岩本は「さびしい。涙がにじむ。このように一度に多数の戦友を失ったのははじめてだ。」「優秀な搭乗員を多数なくして、これからさき、いかにして闘ってゆくつもりだろう」と心境を後につづっている。米軍邀撃機は空母レーダーから日本軍機の位置の指示を受けて時々刻々の対応ができ、日本軍は母艦から簡単な敵情程度しか知らされないその中で岩本は母艦「瑞鶴」をよく護ったと戦闘中に艦長と飛行長よりの賞賛を受けた。 1942年6月15日、「瑞鶴」はアリューシャン攻撃部隊支援として出撃するが、悪天候のため戦闘機隊に活躍の場は無かった。8月、岩本は、搭乗員の教育要員として大村空に転属。その後、横空に転属。1942年11月1日、上等飛行兵曹。1943年(昭和18年)2月上旬に追浜空所属機に搭乗し、芦ノ湖上空で木村泰熊上整曹たちとともに快晴の富士山上空を飛翔する、標識番号「オヒ-101」の零戦21型の写真を残している。
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