空母「瑞鶴」とは? わかりやすく解説

空母「瑞鶴」

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/22 09:02 UTC 版)

岩本徹三」の記事における「空母「瑞鶴」」の解説

1940年4月連合艦隊第1艦隊所属第1航空戦隊、「龍驤」で艦隊訓練開始予備艦になって整備中だった「龍驤」を使って母艦訓練参加した訓練内容は、離艦・着艦母艦夜間着艦訓練編隊空戦連携訓練洋上航法夜間航法無線兵器電信での母艦との通信連絡および電波航法フェアチャイルド社製クルシー方位探知機での)による帰投などであった詳細は「第一航空艦隊」を参照 1941年昭和16年4月第1航空艦隊(1航艦)創設にともない岩本たちは前年度からの母艦龍驤」での訓練選抜され中堅搭乗員として、第1航空艦隊所属第3航空戦隊である「瑞鳳戦闘機隊に配属1941年5月1日海軍一等航空兵曹(6月1日海軍一等飛行兵曹に改称)。1941年秋、最新型高速大型空母翔鶴」、「瑞鶴」が就役し、第5航空戦隊が創設された。10月4日、3航戦の岩本たち瑞鳳戦闘機隊員たちは第5航戦に編入し二手分かれて瑞鶴」および「翔鶴」に着任した。一航艦は日米開戦劈頭に行う真珠湾攻撃のために極秘準備されていたが、岩本たち下級搭乗員知らされないまま、九州基地搭乗機種、艦ごとに集合して当時世界3大海軍国米国英国飛行技量でしのぐ最高の艦隊搭乗員実力目指し連日日夜激し訓練がつづけられていた。岩本回想録には、以後太平洋戦線での様々な実戦局面で、幸運や勘ではなく、この時期艦隊戦闘機隊訓練体得し技術洋上夜間の飛行操縦術へ科学的に応用活用し、確率上げて生き抜いた描写記述されている。 1941年12月太平洋戦争開戦劈頭真珠湾奇襲作戦参加第一航空艦隊所属航空母艦瑞鶴戦闘機隊員で、真珠湾攻撃時は艦隊の上空直衛任務に就き戦果はなかった。1941年12月24日感状授与1942年4月インド洋作戦4月5日機動部隊接触してきたコンソリーデーテッドPBY飛行艇撃墜し太平洋戦争における岩本初撃墜戦果得た詳細は「珊瑚海海戦」を参照 1942年5月MO作戦のため、5航戦は一航艦から第4艦隊指揮下に入り珊瑚海海戦に「瑞鶴上空直掩参加1942年5月8日瑞鶴岩本瑞鶴直衛隊の戦闘機3機と翔鶴隊3機は上空警戒上がっていたものの、残り13機は事前に偵察機から「敵三十味方主力方向に向かう」との報告を受けながら至近距離までせまってから緊急発艦であり、艦隊邀撃体勢後手となった先行して上がっていた岩本小隊3機は、高度7500メートルで、30キロメートル先の攻撃隊を発見し優位の高度からウォーレス・C・ショート大尉率い17機に攻撃をかけて米軍急降下爆撃機攻撃して投弾妨害したショート大尉は「急降下前、急降下中、引き起こし後、いたるところ零戦妨害にあった」と報告している。この攻撃低空下がった岩本小隊は、上昇中に瑞鶴後方味方戦闘機攻撃中の米F4F戦闘機隊を発見し、これに対して攻撃加え岩本は1機を撃墜した岩本隊はこの戦闘後敵の攻撃避けるためスコール退避中で激しくゆれる瑞鶴着艦補給行った米軍第二次攻撃迎撃為に他の小隊と共に発艦し、岩本隊他は概ね高度6500メートルまで上昇の後、母艦から4.50キロメートル海域で、高度5000メートル飛行中レキシントンからのF4F戦闘機護衛されSBD爆撃機捕捉した。このうち岩本らは空母護衛日本軍巡洋艦向かった急降下爆撃機攻撃加えた岩本追撃熱中する機に対し中止命じ後続する筈の敵雷撃機攻撃予想してスコール雨雲の上指揮官機に集まるよう信号送り1,2中隊12機で上空哨戒についた瑞鶴スコール退避して無事を確認したが、翔鶴航行支障はなかったが爆撃飛行機発着不能となったことに岩本は気がついた。予想通りTBDデバステーター現れ岩本空母10km先で気づき7kmの地点TBD雷撃機攻撃したTBD機は遠距離から魚雷投下したため両空母被害はなかった。岩本は後にこの雷撃機に対して日本機なら攻撃されても射点での攻撃敢行しただろう」と回想している。追撃チャンスだったが高度4000メートル哨戒10分後に味方戦闘機高位より攻撃準備中の敵F4F戦闘機発見し救援援護した瑞鶴は相変わらずスコール隠れていたが、翔鶴集中攻撃を受けレキシントンオールト中佐SBD4機が放った500ポンド爆弾の1発が艦橋後方命中した第二次攻撃隊が去った判断した岩本は、今はスコールの外を航行中瑞鶴燃料弾薬補給許可求めたが容れられず、暫く高度5000mで直衛哨戒続けた燃料切れ間近となったので母艦着艦要請出し翔鶴と共に着艦岩本補給後に指揮官として7機を指揮し上空直衛に上った。しばらく後に、米空母攻撃した日本軍機が帰還し翔鶴着艦不能なために全て瑞鶴収容されたが、その後1時間ほど直衛についた珊瑚海海戦目的達成できず撤退するが、母艦瑞鶴岩本らの直衛隊は1名の戦死もなく無傷であったが、攻撃隊の多く搭乗員失った岩本は「さびしい。涙がにじむ。このように一度多数戦友失ったのははじめてだ。」「優秀な搭乗員多数なくしてこれからさき、いかにして闘ってゆくつもりだろう」と心境を後につづっている。米軍邀撃機空母レーダーから日本軍機の位置指示受けて時々刻々の対応ができ、日本軍母艦から簡単な敵情程度しか知らされないその中で岩本母艦瑞鶴」をよく護ったと戦闘中艦長飛行長よりの賞賛受けた1942年6月15日、「瑞鶴」はアリューシャン攻撃部隊支援として出撃するが、悪天候のため戦闘機隊に活躍の場無かった8月岩本は、搭乗員教育要員として大村空に転属その後横空転属1942年11月1日上等飛行兵曹1943年昭和18年2月上旬追浜空所機に搭乗し芦ノ湖上空木村泰熊上整曹たちとともに快晴富士山上空飛翔する、標識番号「オヒ-101」の零戦21型の写真残している。

※この「空母「瑞鶴」」の解説は、「岩本徹三」の解説の一部です。
「空母「瑞鶴」」を含む「岩本徹三」の記事については、「岩本徹三」の概要を参照ください。

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