結果とその後とは? わかりやすく解説

結果とその後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/18 15:17 UTC 版)

TBS平日ワイド大改編」の記事における「結果とその後」の解説

初回視聴率以下の通りとなっている(数値ビデオリサーチ調べ関東地区世帯リアルタイム)。 『ひるおび!』:5.2%(午前)・4.0%(午後) 『総力報道!THE NEWS』:5.9%(第1部)・7.1%(第2部)『総力報道!』は、TBS不調となっている反面、2転じている系列局存在している。 その後も各新番組ともに視聴率は1推移するものが多く既存番組や他ジャンル番組特番スポーツ中継一部ドラマ・バラエティを除く)もそれに釣られるように低調となっている。その結果16時台に再放送されている『水戸黄門再放送)』が2009年4月9日には『みのもんたの朝ズバッ!第2部』と並んで7.2%、同年6月3日にはゴールデン・プライム含めた1日の中で最高視聴率番組となり、その視聴率が7.7%という低迷顕著になった。なお、この日の放送をもって4月リニューアルたばかりの『水曜ノンフィクション関口宏モトたどれば』が打ち切られている。ゴールデンタイム時間帯で1を出す曜日水曜日中心に火・木・日曜日などの一部みられる同様の現象一部JNN系列局でも起きた。また『サカスさん』を同時ネットしていた局のうち、早期番販ネットから離脱する局が出たまた、17時台4月改編当初から『サカスさんネットではなく『水戸黄門』再放送とした系列局も多いが、ここでも日中での最高視聴率番組となっている事が多い。 この状況受けて夏休み機に平日午後の再改編実施月曜 - 木曜は『ひるおび!午後』を全局13:55終了とする代わりにサカスさん』を13:55- 14:49移動金曜日はこの改編によって打ち切り)、『ひるおび!』・『サカスさん』共に内容リニューアルが行われた。また、15時台からの夕方3時間はドラマの再放送とし、韓国版の『花より男子』や『宮廷女官チャングムの誓い』などの韓流ドラマ『水戸黄門』などを放送する。なお、一部系列局では先行して月曜 - 木曜の『ひるおび!午後』を13:55飛び降り変更し空いた月曜 - 木曜14時台は各局別にテレビドラマバラエティ番組など再放送枠切り替えられた。 さらに、2009年秋この年3度目改編実施。今改編では『サカスさん』と『キミハ・ブレイク』が終了平日16:53 - 18:40報道・情報番組イブニングワイド』を、火曜日20時台日曜日20時台新番組スタートさせ、火曜日21時台には日曜日20時台への移動大きく視聴率落としたうたばん』が10年半ぶりに同時間帯に復帰するドラマでも改編後は苦戦しており、一部20%超の高視聴率作品MR.BRAINJIN-仁-)はあるものの、ほとんど10%前後一桁台の作品多くなり、ジャニーズ事務所所属アイドル主演作品スマイルオルトロスの犬)、人気のある漫画小説原作にした作品ゴッドハンド輝こちら葛飾区亀有公園前派出所官僚たちの夏など)、人気シリーズもの夫婦道など)を放送して苦戦している状態である。2009年同局プライムタイム放送され1クール連続ドラマは全16作品だが、その内半分以上12作品平均一桁台だった。 同局の「リンカーン」などでTBSテレビ全体的な視聴率ネタにしている場面があった。 一方2009年民放連続ドラマでは『MR.BRAIN』平均視聴率では唯一の20%超え、『JIN-仁-』が最終回25%超え最高視聴率記録しボクシング内藤大助×亀田興毅戦(WBC世界フライ級タイトルマッチ)が43.1%を獲得し年間視聴率1位(TBS年間視聴率1位獲得史上初)になるなど、その年のスポーツ中継最高記録となっている。 なお、『総力報道!THE NEWS』については視聴率改善しなかったこともあって2010年春の改編打ち切られることが2009年12月8日報道された。またこの大改編実施した吉崎隆編成局長2009年11月3日をもって社長室担当局長に異動している。そのせいか『吉崎金門海峡』の名称は2009年秋の改編時に消えている(各番組自体存続)。 また昼枠の「ひるおび!午後」は2010年春改編時より、金曜版月 - 木曜と同様13:50までに拡大中部日本放送制作そらナビ」の放送時間帯現行より1時間繰り下げ13:55 - 14:55移設の上継続(同じ中部日本放送制作ミニ番組ごごネタ」は全ての曜日現行通り時間帯継続)。一方で毎日放送制作バンバンバン」は2010年3月26日をもって終了となる。よって「ひるドラ後継枠中部日本放送制作のみが「ごごネタ」及び「そらナビ」として存続され、毎日放送制作についてはTBS返上された。

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レイテ沖海戦」の記事における「結果とその後」の解説

結論言えば日本軍は、作戦本来の目的である輸送船団撃滅およびアメリカフィリピン奪還阻止達成できなかった。アメリカ軍一矢報いようとする日本軍最後試みは文字通り水泡に帰した。これにより、アメリカ軍レイテ島足場を築くことに成功しフィリピン奪回進めることとなった日本軍アメリカ軍に一応の損害与えることはできたものの、与えた損害はるかに上回る損害被った。しかし当時日本側は状況把握ができず、10月27日大本営海軍部は敵艦隊を撃破した発表した。この誇大戦果先の台湾沖航空戦誇大戦果合わせてますます日本側の状況判断誤らせることになった終戦までそのこと日本側は殆ど気付いていなかった。日本軍空母4隻、戦艦3隻、重巡6隻他多数艦艇失い残存艦艇燃料のない本土燃料はあっても本格的な修理改装できない南方とに分断され組織的攻撃能力失った。さらに本海戦後戦艦金剛本土へ帰航中にアメリカ潜水艦シーライオン (USS Sealion, SS-315) に雷撃され沈没、また損傷してマニラ避退していた重巡洋艦那智空母レキシントン(CV-16)空襲受けて沈没している。

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TBS平日ワイド大改編」の記事における「結果とその後」の解説

いっぷく!』は開始当初は『はなまるマーケット』の路線そのまま引き継ぐ形で進行されていたが、視聴率苦戦し2014年10月改編番組前半時事ネタ番組目線で解かりやす解説する内容とし、後半生活情報中心とした内容リニューアルしたが、わずか1年後2015年3月終了その後白熱ライブ ビビット』に衣替え2017年4月にはタイトルが『ビビットとなったほか、半年ごとにロゴ内容変更されるなど苦戦強いられさらには裏番組猛攻受けており、最終的に2019年9月27日終了同月30日からは『グッとラック!』が放送開始された。 また、あさチャン!』についても半年ごとのマイナーチェンジ繰り返すほどに苦戦しており、特に2015年春4時台から9時台までを大きくリニューアルした。こちらは2021年9月終了した。 さらに、2015年春改編からは、上記午前中時間帯力を入れて立て直しを図るため、という理由系列局の『ゴゴスマ -GO GO!Smile!-』(CBCテレビ制作)のネット開始系列局ローカル番組同時ネット毎日放送制作『ちちんぷいぷい』以来5年9か月ぶり。視聴率ネット開始当初は『ミヤネ屋』に苦戦していたが、徐々に好調な数字記録するケース増えており、特に2020年入ってからは、関東地区視聴率1位を獲得する日が増加するようになり、2021年入ってからも好調維持し続けている。『ゴゴスマ』は2021年1月現在、TBS系列24ネット放送されていて、TBSテレビ制作協力参加していることもあり、国内外の重大関心事スポーツ番組クッションとして機能することが多い。

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タングステン作戦」の記事における「結果とその後」の解説

ティルピッツ」に対する2波の攻撃おおむね計画通り進行した搭乗員たちはコーフィヨルドの防備地形はエリボル湖の演習場似ている感じた攻撃後の報告一つでは、作戦は「事前に頻繁に実施した訓練とほとんど同じ (almost an exercise which they had frequently carried out before)」であった述べられている。公刊戦史著者スティーブン・ロスキルも攻撃について「見事に調整され大胆に実行された (beautifully co-ordinated and fearlessly executed)」としている。計画と実行時との最も重大な相違点多くパイロットたち命中率上げようとして定められた最低高度の3000フィートよりも低い高度で爆弾投下したことである。最適より短い飛行時間のため、「ティルピッツ」に命中した爆弾中には装甲甲板貫通する必要な速度達していなかったかもしれないイギリス側では搭乗員9名が死亡した。「ティルピッツ近く水中爆発した2発の爆弾船体破孔生じさせたが、命中した15発の爆弾のなかで主甲板装甲帯を貫通したものはなかった。その結果として、砲や弾薬庫機関には大きな損害はなかった。「ティルピッツ」の被害大半は上構や装甲甲板間に生じた右舷カタパルトクレーン破壊された。また搭載機アラド水上機も2機とも破壊された。右舷2番150砲塔使用不能となり、左舷3番150砲塔かなりの損害受けた士官食堂いくつかの調理室残骸化し艦内は煙が充満した煙突にも弾片が当たり、ボイラー吸気口すべてが大きな被害受けた衝撃右舷タービン使えなくなり消火用いられ塩水混入ボイラー2基も使えなくなったが、コーフィヨルド内での航行は可能であった人的被害では122名の水兵死亡し316名が負傷した死傷者数は全乗員15パーセント相当した死傷者大半対空砲砲手で、戦闘機による機銃照射よるものであったイギリス戦闘機哨戒艇4隻や大型工作艦1隻も攻撃した。トローラーの艇長一人死亡し、他に13名が負傷したアルタにいた秘密情報部のTorstein Raabyは攻撃数時間後に民間人の被害はないと報告した一か月後の報告では、ドイツ側は「ティルピッツ」の修理に数か月かかるとみているということ伝えられた。 ドイツの海軍総司令官カール・デーニッツは「ティルピッツ」の修理命じた航空機支援がないため「ティルピッツ」はもはや連合国船団対す作戦実施することはできないが、連合国海軍拘束しておくため現役とどめておくことが望ましいと考えられた。「ティルピッツ」の修理6月中旬完了した 作戦後イギリス側は「ティルピッツ」の修理には6か月要する判断した4月13日カニンガムフレーザーに対して新たな攻撃実施命じた4月から5月にかけてプラネット作戦ブローン作戦タイガークロー作戦発動されたが、いずれも悪天候のため中止となった。よって、次に攻撃実施されたのは7月マスコット作戦であった

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/11/23 15:44 UTC 版)

GP55船団」の記事における「結果とその後」の解説

本船団の遭難は、オーストラリア東海域における日本潜水艦による最も効果的な襲撃事例となった大破したLST-469は、ダグラス・マッカーサー指揮下の第7水陸両用部隊属す不足がち戦車揚陸艦の1隻であったため、同部隊直後予定していたカートホイール作戦最初の段階であるクロニクル作戦en)について、投入兵力資材急遽削らなければならない影響与えた。 しかし、本船団の遭難最後にオーストラリア東海域における日本潜水艦による船舶被害途絶えた日本海軍は、1943年6月下旬にも三潜戦の「伊177」と「伊180」をオーストラリア東岸での交通破壊任務再出撃させたが、6月30日ニュージョージア島の戦い始まったため、両艦は作戦予定海域到着直後ニュージョージア島方面での艦船攻撃任務変更されてしまった。その後日本海軍潜水艦部隊は、「丸通」と称する陸兵補給物資輸送任務兵力多く割いたため、オーストラリア方面での交通破壊作戦実行することができなくなった1944年昭和19年2月トラック島空襲後方トラック泊地大打撃を受けると、オーストラリアに近い前線ラバウル泊地から日本潜水艦全て撤退した連合国軍は、日本潜水艦襲撃止んだ後も1943年末まで、駆逐艦コルベットなどの対潜艦60隻以上をオーストラリア方面での船団護衛任務投入していた。連合国側日本潜水艦活動低下次第把握しオーストラリア近海での護送船団運航1943年12月7日ニューカッスル以南解除され船員反発もあったものの、1944年2月10日以降にはシドニーブリスベン間の護送船団GP船団PG船団)とブリスベングラッドストンen)間の護送船団廃止されて、オーストラリア東海域での直接護衛終了した

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/01 13:42 UTC 版)

米比戦争」の記事における「結果とその後」の解説

1946年7月マニラ条約締結され当初アメリカにより保証されていたフィリピン独立漸く果たされることとなる。フィリピン人一般的にアメリカ友好的であるが、こうした経緯からアメリカ否定的な感情もまたある。 フィリピン側が奇襲合図用いていた鐘(バランギガの鐘)は米比戦争の後、アメリカ戦利品として本国持ち帰っていたが、2018年12月フィリピン中部サマール島のバランギガの教会返還され式典開催された。

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 14:32 UTC 版)

1933年3月ドイツ国会選挙」の記事における「結果とその後」の解説

3月5日選挙の結果ナチ党は43.9%の得票得て288議席獲得した単独過半数には届かなかったが、連立与党国家人民党議席合わせる半数超えたこれまで投票したことのない層もナチ党一票投じるために投票所足を運び投票率は88.8%という高投票率記録したナチ党得票1720票のうち300票はこれまで棄権してきた層だと考えられている。これはヒトラーに「国民宰相」というイメージ付けたナチ党宣伝功を奏した物と考えられており、したがってこの選挙での新規ナチ党支持者ナチ党というよりもヒトラー個人人気獲得した考えられている。 3月9日には共産党非合法化され、その議席81議席)が抹消されたため、総議席数が566議席減少しナチ党単独過半数獲得した国会議事堂全焼していたため、3月21日国会開会式ポツダムフリードリヒ大王墓所のある衛戍教会行われたヒンデンブルク大統領臨席の下、ヨーゼフ・ゲッベルス演出による壮麗な開会式開かれた。この日はポツダムの日呼ばれたヒトラー国会演説で「今や、この数週間のうちに、他の国民的団体結んで1918年以来ドイツ支配してきた勢力排除し革命により国家権力国民的指導部取り戻した。(投票日の)3月5日は、ドイツ民族がこの出来事に彼らの同意与えた日だったのだ。」と語ったように、ナチ党はこの選挙結果従来統治とは異なる「ライヒ指導」つまり「ナチ党及びその指導者であるヒトラー民族ライヒ指導する」という新たな政治形態ドイツ民族に『信任』された勝利であるとした。 国会開会後は、議事臨時国会議事堂あてられクロル・オペラ劇場開催され3月24日には全権委任法可決されヒトラー独裁体制確立された。 3月31日にはラントとライヒの均制化に関する暫定法律発令され国会選挙同日1933年3月5日選挙行っていたプロイセン州議会を除くすべての邦議会は、1933年3月5日国会選挙で各邦ごとに各党が獲得した票数に応じて議席数を再配分された(共産党への投票除外して計算)。 7月までにナチ党以外の政党解散追い込まれ7月14日には政党新設禁止令が制定された。そのため次の同年11月選挙ナチ党のみの選挙になった

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南号作戦」の記事における「結果とその後」の解説

前述のように、大内建二によれば11次にわたる南号作戦加入タンカー30隻のうち、輸送成功したのは6隻だけであった戦史叢書分の4次を加えると37隻中10隻となる)。南号作戦中止により日本の南資源航路事実上閉鎖された。その後太平洋大きく迂回する航路伊号第三五一潜水艦等の潜水艦による輸送などが計画されたが、大きな成果無かった南号作戦含めた1945年ヒ船団による石油輸送量は、総計17キロリットル原油換算168千トン)にとどまった以後日本は、備蓄石油のほか、年産25キロリットル国内産石油と年産10万キロリットル未満人造石油松根油などの代用燃料頼って戦うことになった

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/14 15:08 UTC 版)

ガザラの戦い」の記事における「結果とその後」の解説

ロンメルトブルク攻略直後元帥昇進した。これとは対照的に、ガザラの敗北トブルク陥落からオーキンレックが直接イギリス第8軍指揮することとなってリッチー第8軍司令官解任された。 トブルク攻略の後、アフリカ装甲軍エジプトへ向け進撃開始した。オーキンレックはロンメル直接対決することを避け比較小規模ながら強力な部隊執拗に攻撃繰り返し時間稼いだ。オーキンレックは、メルサ・マトルーの防衛拠点側面が南の砂漠方向開けていて、ロンメルがガザラで行ったような迂回包囲避けるため、ここを放棄することとした。オーキンレックは100マイル (160 km)あるいはそれ以上東のカッターラ低地斜面険し地形になっているため防御陣地南側装甲部隊迂回攻撃を行うことを不可能にすることから、エル・アラメイン付近に撤退し防御陣地を築くこととしたものであるガザラの戦い勝利したにもかかわらず枢軸国軍装甲部隊損失取り返しつかないのだった戦いで受けた損傷による装甲師団弱体化は、ドイツアフリカ軍団戦闘力著しく低下させた。この結果ロンメルはガザラ、トブルクでの勝利を生かすことができなかった。一方イギリス軍アメリカ合衆国製の戦車大量補強により、その後北アフリカ戦線における数的優位確実にした。 ロンメルは、6月30日から7月1日にかけての第一次エル・アラメイン会戦において、イギリス軍エル・アラメイン防衛線に数次にわたり攻撃行ったものの、撃退されてしまった。ここで、オーキンレックが枢軸国軍進撃食い止めることに成功したにもかかわらずチャーチル彼に対す信頼なくしていた。彼は軍司令官としてかなりの才能見せたものの、部下人事に関しては、苦手であり不運であった実際、彼は師団規模指揮経験しかないニール・リッチー期待寄せ軍司令官とした。また、第8軍のうちで一番機甲部隊指揮経験があったゴットを第7機甲師団長から歩兵部隊主力第13軍司令官とし、さらには歩兵騎兵指揮経験しかないフランク・メサーヴィーを第7機甲師団長とした人事挙げられるロンメルはこの会戦の後、枢軸国軍の状況容易ならないものと知ったロンメル7月4日日記に「我軍は疲れ果てている。」と記している。7月5日には、ロンメル状況危機的であると記した7月17日には、「敵は特に歩兵優勢であり、その後イタリア軍部隊飲み込んでしまった。ドイツ軍自身を守るにしてもとても弱く泣きたくなるようだ!」と述べている。8月チャーチルは、オーキンレックの任務第8軍司令官第13軍司令官のウィリアム・ゴット中将代え中東方面軍総司令官の職についてもハロルド・アレキサンダー大将代えた。しかし、ゴット彼の乗っていた飛行機攻撃を受け死亡しその代わりバーナード・モントゴメリー第8軍司令官任命された。 1942年9月13から14日にかけての夜にトブルクへの襲撃作戦アグリーメント作戦)が実施された。イギリス軍部隊まる1日イギリス軍捕虜16,000名の多く残っていたトブルクとどまった作戦想定では、防衛にあたっているイタリア軍大きな抵抗示さない見られていた。襲撃部隊イタリア軍海岸砲台による激し砲撃直面し駆逐艦シーク沈められ、また守備にあたっていたイタリア軍サン・マルコ海兵大隊激し抵抗受けた襲撃部隊抵抗失敗し撤退をしたが、ドイツ空軍ユンカース Ju88 により軽巡洋艦コヴェントリー (en) が沈められ、また駆逐艦ズールーイタリア空軍のMC.200の攻撃を受け沈められた。このアグリーメント作戦中にイギリス海軍将兵280名、海兵隊員300名及び陸軍兵160名が戦死負傷または捕虜となった

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/14 14:56 UTC 版)

イタリアのエジプト侵攻」の記事における「結果とその後」の解説

最終的にイタリア軍エジプト侵攻イギリス軍の主防衛陣地にまでいたらなかった。また、続けてマルサ・マトルーへの攻撃行なわれなかった。この侵攻は、当初目標としていたスエズ運河のはるか手前終わった。 この時のイギリス軍について、ウェーヴェル将軍次のように記している。 この忍耐戦術眼を要した撤退作戦において、冷静かつ効果的な方法により、支援群を指揮したウィリアム・ゴット准将砲兵隊指揮したキャンベル中佐最大限栄誉与えられるべきである。 ムッソリーニ10月26日イタリア軍エジプト侵攻関し次のように自問した。 シディ・バラーニを占領して40日経過し、この停滞はどちらにとって有利であるか、我々であるか、それとも敵であるか、私は自問した。私はそれに答えるに躊躇しない。それは、我が方よりも確実に敵にとってより有利であった。そして、この件について今後もこの作戦継続したい思っているのかどうか回答を出すべき時になっている。 2日後10月28日イタリア軍ギリシャ侵攻開始し、これによりムッソリーニ関心エジプト及びグラッツィアーニから離れていった。けれども、グラッツィアーニゆっくりとではあったが、物資補給路を整備し侵攻継続準備進めていた。イタリア軍のマルサ・マトルーへの攻撃開始は、12月15日あるいは18日設定された。しかしすぐに、グラッツィアーニイタリア軍エジプトにおいて主導権を失うこととなった1940年12月8日イギリス軍イタリア軍拠点シディ・バラーニの外殻防衛線のイタリア軍陣地対し攻撃開始した。このとき、第10軍司令官ベルティ将軍病気となり、イータロ・ガリボルディ将軍臨時指揮を執っていた。イギリス軍の攻撃は完全な成功収めエジプトにあったイタリア第10軍壊滅免れ撤退できた部隊はわずかであった12月11日には、イギリス軍の攻撃コンパス作戦呼ばれた本格的な反攻作戦となったイタリア軍リビアへ向け後退後退重ねエジプト侵攻開始地点よりも後退しイタリア第10軍壊滅した。 またイギリス軍は、「1936年のアングロエジプト条約」の規定かかわらずイタリア軍侵攻により兵を増員しエジプト全土占領主要基地軍政敷いた

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