結果とその後
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「TBS平日ワイド大改編」の記事における「結果とその後」の解説
初回視聴率は以下の通りとなっている(数値はビデオリサーチ調べ、関東地区・世帯・リアルタイム)。 『ひるおび!』:5.2%(午前)・4.0%(午後) 『総力報道!THE NEWS』:5.9%(第1部)・7.1%(第2部)『総力報道!』は、TBSで不調となっている反面、2桁に転じている系列局が存在している。 その後も各新番組ともに視聴率は1桁を推移するものが多く、既存番組や他ジャンルの番組(特番やスポーツ中継、一部のドラマ・バラエティを除く)もそれに釣られるように低調となっている。その結果、16時台に再放送されている『水戸黄門(再放送)』が2009年4月9日には『みのもんたの朝ズバッ!・第2部』と並んで7.2%、同年6月3日にはゴールデン・プライム含めた1日の中で最高視聴率番組となり、その視聴率が7.7%という低迷が顕著になった。なお、この日の放送をもって4月にリニューアルしたばかりの『水曜ノンフィクション・関口宏のモトをたどれば』が打ち切られている。ゴールデンタイム全時間帯で1桁を出す曜日は水曜日を中心に火・木・日曜日などの一部でみられる。 同様の現象は一部JNN系列局でも起きた。また『サカスさん』を同時ネットしていた局のうち、早期に番販ネットから離脱する局が出た。また、17時台を4月改編当初から『サカスさん』ネットではなく『水戸黄門』の再放送とした系列局も多いが、ここでも日中での最高視聴率番組となっている事が多い。 この状況を受けて、夏休みを機に平日午後の再改編を実施。月曜 - 木曜は『ひるおび!・午後』を全局13:55終了とする代わりに『サカスさん』を13:55- 14:49枠に移動(金曜日はこの改編によって打ち切り)、『ひるおび!』・『サカスさん』共に内容のリニューアルが行われた。また、15時台からの夕方3時間はドラマの再放送枠とし、韓国版の『花より男子』や『宮廷女官チャングムの誓い』などの韓流ドラマや『水戸黄門』などを放送する。なお、一部系列局では先行して月曜 - 木曜の『ひるおび!・午後』を13:55飛び降りに変更し、空いた月曜 - 木曜の14時台は各局別にテレビドラマやバラエティ番組などの再放送枠に切り替えられた。 さらに、2009年秋にこの年3度目の改編を実施。今改編では『サカスさん』と『キミハ・ブレイク』が終了、平日16:53 - 18:40枠に報道・情報番組『イブニングワイド』を、火曜日20時台と日曜日20時台に新番組をスタートさせ、火曜日21時台には日曜日20時台への移動で大きく視聴率を落とした『うたばん』が10年半ぶりに同時間帯に復帰する。 ドラマでも改編後は苦戦しており、一部に20%超の高視聴率作品(MR.BRAINやJIN-仁-)はあるものの、ほとんど10%前後か一桁台の作品が多くなり、ジャニーズ事務所所属アイドルの主演作品(スマイルやオルトロスの犬)、人気のある漫画や小説を原作にした作品(ゴッドハンド輝やこちら葛飾区亀有公園前派出所、官僚たちの夏など)、人気シリーズもの(夫婦道など)を放送しても苦戦している状態である。2009年に同局のプライムタイム枠で放送された1クールの連続ドラマは全16作品だが、その内、半分以上の12作品が平均で一桁台だった。 同局の「リンカーン」などでTBSテレビの全体的な低視聴率をネタにしている場面があった。 一方、2009年の民放の連続ドラマでは『MR.BRAIN』が平均視聴率では唯一の20%超え、『JIN-仁-』が最終回で25%超えの最高視聴率を記録し、ボクシングの内藤大助×亀田興毅戦(WBC世界フライ級タイトルマッチ)が43.1%を獲得し年間視聴率1位(TBSの年間視聴率1位獲得は史上初)になるなど、その年のスポーツ中継の最高記録となっている。 なお、『総力報道!THE NEWS』については視聴率が改善しなかったこともあって2010年春の改編で打ち切られることが2009年12月8日に報道された。またこの大改編を実施した吉崎隆編成局長は2009年11月3日をもって社長室付担当局長に異動している。そのせいか『吉崎金門海峡』の名称は2009年秋の改編時に消えている(各番組自体は存続)。 また昼枠の「ひるおび!・午後」は2010年春改編時より、金曜版も月 - 木曜と同様13:50までに拡大。中部日本放送制作「そらナビ」の放送時間帯を現行より1時間繰り下げて13:55 - 14:55枠に移設の上で継続(同じ中部日本放送制作のミニ番組「ごごネタ」は全ての曜日現行通りの時間帯で継続)。一方で毎日放送制作「バンバンバン」は2010年3月26日をもって終了となる。よって「ひるドラ」後継枠は中部日本放送制作枠のみが「ごごネタ」及び「そらナビ」として存続され、毎日放送制作枠についてはTBSへ返上された。
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結果とその後
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結論を言えば日本軍は、作戦本来の目的である輸送船団の撃滅およびアメリカのフィリピン奪還阻止を達成できなかった。アメリカ軍に一矢報いようとする日本軍の最後の試みは文字通り水泡に帰した。これにより、アメリカ軍はレイテ島に足場を築くことに成功し、フィリピン奪回を進めることとなった。日本軍はアメリカ軍に一応の損害を与えることはできたものの、与えた損害をはるかに上回る損害を被った。しかし当時の日本側は状況把握ができず、10月27日に大本営海軍部は敵艦隊を撃破したと発表した。この誇大戦果は先の台湾沖航空戦の誇大戦果と合わせてますます日本側の状況判断を誤らせることになったが終戦までそのことは日本側は殆ど気付いていなかった。日本軍は空母4隻、戦艦3隻、重巡6隻他多数の艦艇を失い、残存艦艇は燃料のない本土と燃料はあっても本格的な修理改装のできない南方とに分断され、組織的攻撃能力を失った。さらに本海戦後、戦艦金剛が本土への帰航中にアメリカ潜水艦シーライオン (USS Sealion, SS-315) に雷撃されて沈没、また損傷してマニラに避退していた重巡洋艦那智も空母レキシントン(CV-16)の空襲を受けて沈没している。
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「TBS平日ワイド大改編」の記事における「結果とその後」の解説
『いっぷく!』は開始当初は『はなまるマーケット』の路線をそのまま引き継ぐ形で進行されていたが、視聴率で苦戦し、2014年10月改編で番組前半は時事ネタを番組目線で解かりやすく解説する内容とし、後半は生活情報を中心とした内容にリニューアルしたが、わずか1年後の2015年3月で終了。その後『白熱ライブ ビビット』に衣替え。2017年4月にはタイトルが『ビビット』となったほか、半年ごとにロゴ・内容が変更されるなど苦戦を強いられ、さらには裏番組の猛攻も受けており、最終的に2019年9月27日に終了。同月30日からは『グッとラック!』が放送開始された。 また、『あさチャン!』についても半年ごとのマイナーチェンジを繰り返すほどに苦戦しており、特に2015年春は4時台から9時台までを大きくリニューアルした。こちらは2021年9月に終了した。 さらに、2015年春改編からは、上記の午前中の時間帯に力を入れて立て直しを図るため、という理由で系列局の『ゴゴスマ -GO GO!Smile!-』(CBCテレビ制作)のネットを開始。系列局のローカル番組の同時ネットは毎日放送制作の『ちちんぷいぷい』以来5年9か月ぶり。視聴率はネット開始当初は『ミヤネ屋』に苦戦していたが、徐々に好調な数字を記録するケースが増えており、特に2020年に入ってからは、関東地区で視聴率1位を獲得する日が増加するようになり、2021年に入ってからも好調を維持し続けている。『ゴゴスマ』は2021年1月現在、TBS系列24局ネットで放送されていて、TBSテレビが制作協力に参加していることもあり、国内外の重大関心事やスポーツ番組のクッションとして機能することが多い。
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「ティルピッツ」に対する2波の攻撃はおおむね計画通りに進行した。搭乗員たちはコーフィヨルドの防備や地形はエリボル湖の演習場と似ていると感じた。攻撃後の報告の一つでは、作戦は「事前に頻繁に実施した訓練とほとんど同じ (almost an exercise which they had frequently carried out before)」であったと述べられている。公刊戦史の著者スティーブン・ロスキルも攻撃について「見事に調整され大胆に実行された (beautifully co-ordinated and fearlessly executed)」としている。計画と実行時との最も重大な相違点は多くのパイロットたちが命中率を上げようとして定められた最低高度の3000フィートよりも低い高度で爆弾を投下したことである。最適より短い飛行時間のため、「ティルピッツ」に命中した爆弾の中には装甲甲板を貫通するの必要な速度に達していなかったかもしれない。イギリス側では搭乗員9名が死亡した。「ティルピッツ」近くの水中で爆発した2発の爆弾は船体に破孔を生じさせたが、命中した15発の爆弾のなかで主甲板の装甲帯を貫通したものはなかった。その結果として、砲や弾薬庫、機関には大きな損害はなかった。「ティルピッツ」の被害の大半は上構や装甲甲板間に生じた。右舷のカタパルトやクレーンは破壊された。また搭載機のアラド水上機も2機とも破壊された。右舷の2番150㎜砲塔は使用不能となり、左舷の3番150㎜砲塔はかなりの損害を受けた。士官食堂やいくつかの調理室は残骸と化し、艦内は煙が充満した。煙突にも弾片が当たり、ボイラーの吸気口すべてが大きな被害を受けた。衝撃で右舷のタービンが使えなくなり、消火に用いられた塩水の混入でボイラー2基も使えなくなったが、コーフィヨルド内での航行は可能であった。人的被害では122名の水兵が死亡し、316名が負傷した。死傷者数は全乗員の15パーセントに相当した。死傷者の大半は対空砲の砲手で、戦闘機による機銃照射によるものであった。 イギリスの戦闘機は哨戒艇4隻や大型の工作艦1隻も攻撃した。トローラーの艇長が一人死亡し、他に13名が負傷した。アルタにいた秘密情報部のTorstein Raabyは攻撃の数時間後に民間人の被害はないと報告した。一か月後の報告では、ドイツ側は「ティルピッツ」の修理に数か月かかるとみているということが伝えられた。 ドイツの海軍総司令官カール・デーニッツは「ティルピッツ」の修理を命じた。航空機の支援がないため「ティルピッツ」はもはや連合国の船団に対する作戦を実施することはできないが、連合国海軍を拘束しておくため現役にとどめておくことが望ましいと考えられた。「ティルピッツ」の修理は6月中旬に完了した 作戦後、イギリス側は「ティルピッツ」の修理には6か月を要すると判断した。4月13日、カニンガムはフレーザーに対して新たな攻撃の実施を命じた。4月から5月にかけてプラネット作戦、ブローン作戦、タイガークロー作戦が発動されたが、いずれも悪天候のため中止となった。よって、次に攻撃が実施されたのは7月のマスコット作戦であった。
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本船団の遭難は、オーストラリア東海域における日本潜水艦による最も効果的な襲撃事例となった。大破したLST-469は、ダグラス・マッカーサー指揮下の第7水陸両用部隊に属する不足がちな戦車揚陸艦の1隻であったため、同部隊が直後に予定していたカートホイール作戦の最初の段階であるクロニクル作戦(en)について、投入兵力・資材を急遽削らなければならない影響を与えた。 しかし、本船団の遭難を最後に、オーストラリア東海域における日本潜水艦による船舶被害は途絶えた。日本海軍は、1943年6月下旬にも三潜戦の「伊177」と「伊180」をオーストラリア東岸での交通破壊任務で再出撃させたが、6月30日にニュージョージア島の戦いが始まったため、両艦は作戦予定海域へ到着直後にニュージョージア島方面での艦船攻撃に任務を変更されてしまった。その後、日本海軍の潜水艦部隊は、「丸通」と称する陸兵・補給物資の輸送任務に兵力の多くを割いたため、オーストラリア方面での交通破壊作戦を実行することができなくなった。1944年(昭和19年)2月のトラック島空襲で後方のトラック泊地が大打撃を受けると、オーストラリアに近い前線のラバウル泊地から日本潜水艦は全て撤退した。 連合国軍は、日本潜水艦の襲撃が止んだ後も1943年末まで、駆逐艦やコルベットなどの対潜艦艇60隻以上をオーストラリア方面での船団護衛任務に投入していた。連合国側も日本潜水艦の活動低下を次第に把握し、オーストラリア近海での護送船団運航は1943年12月7日にニューカッスル以南で解除され、船員の反発もあったものの、1944年2月10日以降にはシドニー=ブリスベン間の護送船団(GP船団・PG船団)とブリスベン=グラッドストン(en)間の護送船団が廃止されて、オーストラリア東海域での直接護衛は終了した。
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1946年7月にマニラ条約が締結され、当初アメリカにより保証されていたフィリピンの独立も漸く果たされることとなる。フィリピン人は一般的にアメリカに友好的であるが、こうした経緯からアメリカに否定的な感情もまたある。 フィリピン側が奇襲の合図に用いていた鐘(バランギガの鐘)は米比戦争の後、アメリカが戦利品として本国に持ち帰っていたが、2018年12月にフィリピン中部のサマール島のバランギガの教会に返還され、式典が開催された。
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「1933年3月ドイツ国会選挙」の記事における「結果とその後」の解説
3月5日の選挙の結果、ナチ党は43.9%の得票を得て288議席を獲得した。単独過半数には届かなかったが、連立与党の国家人民党の議席と合わせると半数を超えた。これまで投票したことのない層もナチ党に一票を投じるために投票所へ足を運び、投票率は88.8%という高投票率を記録した。ナチ党の得票1720万票のうち300万票はこれまで棄権してきた層だと考えられている。これはヒトラーに「国民宰相」というイメージを付けたナチ党の宣伝が功を奏した物と考えられており、したがってこの選挙での新規のナチ党支持者はナチ党というよりもヒトラー個人の人気で獲得したと考えられている。 3月9日には共産党が非合法化され、その議席(81議席)が抹消されたため、総議席数が566議席に減少し、ナチ党が単独過半数を獲得した。 国会議事堂は全焼していたため、3月21日の国会開会式はポツダムのフリードリヒ大王の墓所のある衛戍教会で行われた。ヒンデンブルク大統領の臨席の下、ヨーゼフ・ゲッベルスの演出による壮麗な開会式が開かれた。この日はポツダムの日と呼ばれた。ヒトラーが国会演説で「今や、この数週間のうちに、他の国民的団体と結んで1918年以来、ドイツを支配してきた勢力を排除し、革命により国家権力を国民的指導部に取り戻した。(投票日の)3月5日は、ドイツ民族がこの出来事に彼らの同意を与えた日だったのだ。」と語ったように、ナチ党はこの選挙結果を従来の統治とは異なる「ライヒ指導」つまり「ナチ党及びその指導者であるヒトラーが民族とライヒを指導する」という新たな政治形態がドイツ民族に『信任』された勝利であるとした。 国会開会後は、議事は臨時国会議事堂にあてられたクロル・オペラ劇場で開催され、3月24日には全権委任法が可決され、ヒトラーの独裁体制が確立された。 3月31日にはラントとライヒの均制化に関する暫定法律が発令され、国会選挙と同日の1933年3月5日に選挙を行っていたプロイセン州議会を除くすべての邦議会は、1933年3月5日の国会選挙で各邦ごとに各党が獲得した票数に応じて議席数を再配分された(共産党への投票は除外して計算)。 7月までにナチ党以外の全政党が解散に追い込まれ、7月14日には政党新設禁止令が制定された。そのため次の同年11月の選挙はナチ党のみの選挙になった。
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結果とその後
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前述のように、大内建二によれば11次にわたる南号作戦加入タンカー30隻のうち、輸送に成功したのは6隻だけであった(戦史叢書分の4次を加えると37隻中10隻となる)。南号作戦の中止により日本の南方資源航路は事実上閉鎖された。その後も太平洋を大きく迂回する航路や伊号第三五一潜水艦等の潜水艦による輸送などが計画されたが、大きな成果は無かった。南号作戦を含めた1945年のヒ船団による石油輸送量は、総計で17万キロリットル(原油換算で16万8千トン)にとどまった。以後の日本は、備蓄石油のほか、年産25万キロリットルの国内産石油と年産10万キロリットル未満の人造石油、松根油などの代用燃料に頼って戦うことになった。
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結果とその後
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ロンメルはトブルク攻略の直後に元帥に昇進した。これとは対照的に、ガザラの敗北とトブルク陥落からオーキンレックが直接イギリス第8軍を指揮することとなって、リッチーは第8軍司令官を解任された。 トブルク攻略の後、アフリカ装甲軍はエジプトへ向け進撃を開始した。オーキンレックはロンメルと直接対決することを避け、比較的小規模ながら強力な部隊で執拗に攻撃を繰り返し、時間を稼いだ。オーキンレックは、メルサ・マトルーの防衛拠点の側面が南の砂漠方向に開けていて、ロンメルがガザラで行ったような迂回包囲を避けるため、ここを放棄することとした。オーキンレックは100マイル (160 km)あるいはそれ以上東のカッターラ低地の斜面が険しい地形になっているため防御陣地の南側を装甲部隊が迂回攻撃を行うことを不可能にすることから、エル・アラメイン付近に撤退し防御陣地を築くこととしたものである。 ガザラの戦いに勝利したにもかかわらず、枢軸国軍の装甲部隊の損失は取り返しのつかないものだった。戦いで受けた損傷による装甲師団の弱体化は、ドイツアフリカ軍団の戦闘力を著しく低下させた。この結果、ロンメルはガザラ、トブルクでの勝利を生かすことができなかった。一方、イギリス軍はアメリカ合衆国製の戦車の大量補強により、その後の北アフリカ戦線における数的優位を確実にした。 ロンメルは、6月30日から7月1日にかけての第一次エル・アラメインの会戦において、イギリス軍のエル・アラメインの防衛線に数次にわたり攻撃を行ったものの、撃退されてしまった。ここで、オーキンレックが枢軸国軍の進撃を食い止めることに成功したにもかかわらず、チャーチルは彼に対する信頼をなくしていた。彼は軍司令官としてはかなりの才能を見せたものの、部下の人事に関しては、苦手であり不運であった。実際、彼は師団規模の指揮の経験しかないニール・リッチーに期待を寄せ、軍司令官とした。また、第8軍のうちで一番機甲部隊の指揮経験があったゴットを第7機甲師団長から歩兵部隊が主力の第13軍団司令官とし、さらには歩兵と騎兵の指揮経験しかないフランク・メサーヴィーを第7機甲師団長とした人事が挙げられる。 ロンメルはこの会戦の後、枢軸国軍の状況が容易ならないものと知った。ロンメルは7月4日の日記に「我軍は疲れ果てている。」と記している。7月5日には、ロンメルは状況は危機的であると記した。7月17日には、「敵は特に歩兵が優勢であり、その後イタリア軍部隊を飲み込んでしまった。ドイツ軍は自身を守るにしてもとても弱く、泣きたくなるようだ!」と述べている。8月にチャーチルは、オーキンレックの任務の第8軍司令官を第13軍団司令官のウィリアム・ゴット中将に代え、中東方面軍総司令官の職についてもハロルド・アレキサンダー大将に代えた。しかし、ゴットは彼の乗っていた飛行機が攻撃を受け死亡し、その代わりにバーナード・モントゴメリーが第8軍司令官に任命された。 1942年9月13から14日にかけての夜に、トブルクへの襲撃作戦(アグリーメント作戦)が実施された。イギリス軍部隊はまる1日イギリス軍捕虜16,000名の多くが残っていたトブルクにとどまった。作戦の想定では、防衛にあたっているイタリア軍は大きな抵抗を示さないと見られていた。襲撃部隊はイタリア軍海岸砲台による激しい砲撃に直面し、駆逐艦シークは沈められ、また守備にあたっていたイタリア軍サン・マルコ海兵大隊の激しい抵抗を受けた。襲撃部隊の抵抗は失敗し撤退をしたが、ドイツ空軍のユンカース Ju88 により軽巡洋艦コヴェントリー (en) が沈められ、また駆逐艦ズールーもイタリア空軍のMC.200の攻撃を受け沈められた。このアグリーメント作戦中にイギリス海軍将兵280名、海兵隊員300名及び陸軍兵160名が戦死、負傷または捕虜となった。
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「イタリアのエジプト侵攻」の記事における「結果とその後」の解説
最終的にイタリア軍のエジプト侵攻はイギリス軍の主防衛陣地にまでいたらなかった。また、続けてマルサ・マトルーへの攻撃も行なわれなかった。この侵攻は、当初の目標としていたスエズ運河のはるか手前で終わった。 この時のイギリス軍について、ウェーヴェル将軍は次のように記している。 この忍耐と戦術眼を要した撤退作戦において、冷静かつ効果的な方法により、支援群を指揮したウィリアム・ゴット准将と砲兵隊を指揮したキャンベル中佐に最大限の栄誉が与えられるべきである。 ムッソリーニは10月26日、イタリア軍のエジプト侵攻に関し、次のように自問した。 シディ・バラーニを占領して40日経過し、この停滞はどちらにとって有利であるか、我々であるか、それとも敵であるか、私は自問した。私はそれに答えるに躊躇しない。それは、我が方よりも確実に敵にとってより有利であった。そして、この件について今後もこの作戦を継続したいと思っているのかどうかの回答を出すべき時になっている。 2日後の10月28日、イタリア軍はギリシャ侵攻を開始し、これによりムッソリーニの関心はエジプト及びグラッツィアーニから離れていった。けれども、グラッツィアーニはゆっくりとではあったが、物資補給路を整備し、侵攻継続の準備を進めていた。イタリア軍のマルサ・マトルーへの攻撃開始は、12月15日あるいは18日と設定された。しかしすぐに、グラッツィアーニとイタリア軍はエジプトにおいて主導権を失うこととなった。 1940年12月8日、イギリス軍はイタリア軍の拠点シディ・バラーニの外殻防衛線のイタリア軍陣地に対し攻撃を開始した。このとき、第10軍司令官ベルティ将軍が病気となり、イータロ・ガリボルディ将軍が臨時に指揮を執っていた。イギリス軍の攻撃は完全な成功を収め、エジプトにあったイタリア第10軍で壊滅を免れ、撤退できた部隊はわずかであった。12月11日には、イギリス軍の攻撃はコンパス作戦と呼ばれた本格的な反攻作戦となった。イタリア軍はリビアへ向け後退に後退を重ね、エジプト侵攻開始地点よりも後退し、イタリア第10軍は壊滅した。 またイギリス軍は、「1936年のアングロエジプト条約」の規定にかかわらず、イタリア軍の侵攻により兵を増員し、エジプト全土を占領、主要基地に軍政を敷いた。
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