結果とその余波
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/27 21:51 UTC 版)
「オクトーバー・クライシス」の記事における「結果とその余波」の解説
ジェイムズ・クロスを誘拐した者たちはケベック州との対決よりもキューバへの亡命を選び、ピエール・ラポルトを殺害したケベック解放戦線メンバーは逮捕され、誘拐および第一級殺人の罪で告発された。 オクトーバー・クライシスは、現代カナダにおける最も深刻なテロ事件とされ、そして、連邦政府および地方政府による対応については、現在も激しい論争の種となっている。しかし当時の世論が、ケベック州の戦時措置法施行を圧倒的に支持していたのは確かである。新民主党のトミー・ダグラスら幾人かの批評家は、トルドー首相が市民の自由を停止するために戦時措置法を施行するのは行き過ぎであった、そして、このことが先例となること自体が危険であると考えた。 ケベック解放戦線の組織の真の大きさや一般社会における賛同者の数は判らないままであった。しかし、ケベック解放戦線は自らのマニフェストでこう述べている。 近日中にブラッサ(首相)は、組織化され武装した10万人の革命的労働者たちに直面するであろう。 7年におよぶ爆弾テロと、その全期間にわたって彼らがコミュニケで駆使した言葉遣いは、ケベック解放戦線がカナダ社会の全ての面に浸透した強力な秘密組織であるというイメージを与えようとしており、またそれに成功した。しかしそれ故に当局は、彼らに対して断固たる措置で臨んだ。 この時カナダ政府がとった強硬な手段に肯定的な者は、政府の積極的な対応があったおかげで、1970年以降には同様なテロ事件が発生していないとの主張を続けている。その一方でより一般的な見解として、ケベック州市民の間でこういったテロリズムは不愉快かつ不必要なものと理解されたからといわれている。これによってカナダからの独立を求める人々は、充分に民主的なプロセスで独立が達成されるべきであり、またそうでなければならないと意識するようになった。 ケベック分離主義者に対する支持は一時低下したものの、後には再び十分な支持を得るようになった。分離政策を掲げるケベック党も1976年にケベック州与党となった。1982年にカナダは新憲法を採択するが、ケベック州はこれを拒み、1987年にはケベック州の地位を認めたミーチ・レーク合意が得られたが、これも各州の足並みがそろわず実施されなかった。ケベック州はカナダの一州であるが、その政治的地位は微妙な状態のままにある。
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