結果および評価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/06 10:03 UTC 版)
ジャガイモは飢饉の後もアイルランドの主要な農業生産物であり続けた。19世紀末、アイルランド島の一人当たりのジャガイモの消費量は1日4ポンドで、世界で最も多かった。後の飢饉の影響ははるかに小さく、一般的には歴史家以外には最小限に抑えられたり、忘れ去られたりしている。1911年の国勢調査では、アイルランド島の人口は約440万人で、1800年や2000年とほぼ同じで、史上最多人口の約半分となっている。また、犠牲者の多くが被支配層のアイルランド人で、彼らは主にアイルランド語話者であった。しかし飢饉によって人口が減ったことに加え、生き残ったアイルランド人もその後の政策や生活上の便宜から英語を話すようになったため、アイルランド語話者の比率が回復不可能なほど激減し、英語の優位が確立する結果となった。 この出来事の現代的な見方は、ジョン・ラッセルの政府対応や危機管理を厳しく批判していた。当初から、災害の大きさを予測できなかったという政府への非難があった。ロバート・ピール前政権で内務大臣を務めたジェームズ・グラハム卿は、「アイルランドの困難の実態は政府によって過小評価されており、経済科学の狭い枠組みの中での対策では解決できない」との見解を手紙で伝えている。今日見ても、アイルランド史の中で物議を醸している。ジャガイモの収穫失敗とそれに伴う大規模な飢饉における英国政府の役割と、これが省略による大量虐殺と見なすことができるかどうかについての議論や議論は、歴史的・政治的な観点から、依然として論争の的となっている。 この悲劇は、アイルランド全土の多くの記念碑、特に最大の犠牲者を出した地域や、アイルランド人の重要なコミュニティが移住してきた世界中の都市で記憶されている。これらの記念碑には、ダブリンのカスタム・ハウス波止場に、アーティストのローワン・ギレスピーによる、ダブリン波止場の船に向かっているかのような人物の彫刻がある。また、メイヨー県のクロー・パトリックの麓にあるマリスク・ミレニアム平和公園にも大きな記念碑がある。アメリカ合衆国にある記念碑の中には、多くのアイルランド人が飢餓から逃れるためにたどり着いたニューヨークにある「アイリッシュ・ハンガー・メモリアル」がある。 大飢饉から1世紀半以上経った今でも、アイルランド文化と結びついているのは、有名であろうとなかろうと、多くのアイルランド人が国際的に飢餓対策に取り組んできたからである。1985年、ライヴエイドの創始者ボブ・ゲルドフは、アイルランドの人々が一人当たりの価値がどの国よりも高く貢献したことを明らかにした。アイルランドのいくつかの非政府組織は、アフリカの飢餓との戦いで中心的な役割を果たしている。2000年、U2のシンガーであるボノは、「ジュビリー2000」構想の立ち上げの際に、アフリカ諸国の債務の帳消しを求めるキャンペーンを行った。 連合王国政府の行動が意図的な飢餓輸出かそうではなかったかについては、いまだに歴史的評価が定まっていないが、1997年にイギリスのトニー・ブレア首相は、アイルランドで開催されていた追悼集会において、1万5千人の群衆を前に飢饉当時のイギリス政府の責任を認め、謝罪の手紙を読み上げた。これはイギリス政府の要人からの初めての謝罪であった。
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